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拝啓、後夜祭より  作者: 九木圭人
始まり
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始まり1

 例えばこういう話だ。


 同じ場所、同じ日に生まれたA君とB君がいたとする。

 A君は100年に1人のサッカーの天才。B君は100年に1人のセパタクローの天才だったとしよう。

 二人は同じ年にそれぞれの競技の世界に足を踏み入れ、以降はそれぞれの分野で無人の野を征くが如き活躍を示した。

 だがそれから10年経ち、20年経ち、二人には大きな差が生じる。A君が庭付きの別荘とプライベートジェットを手に入れた時、B君は賃貸住宅に暮らして中古車に乗っていたとしよう。


 さて、この二人の間に優劣はあるだろうか?

 どちらもそれぞれの世界では誰も敵わない程の成績を上げた。だが、それでも得られたものに関して言えば明確に差がついている。

 果たして、B君はA君より劣っていたのか?或いはセパタクローはサッカーに?


 恐らく、多くの人はどちらもノーと答えるだろう。

 そしてその理由を問われれば必ず彼らはこう答えるはずだ。即ち「ただサッカーがセパタクローより大金が稼げるだけだ」と。つまり、二人の差は生まれ落ちた時たまたま金を稼げる分野の才能があったか否かでしかない、と。


 そう、つまりそういう事だ。

 だが恵まれているのは、もっと言えば、経済的に余裕があるのはどちらだろう?それは誰がどう考えてもA君だろう。

 つまり、人生に余裕があるのはA君だ。もっと極端に言えば、この時代この世界において、より生きていくのに適しているのはA君だ。少なくとも、戦乱のない資本主義社会においては。

 たまたま生まれ持った能力が現代社会において高く評価される者、そうではない者、ただそれだけの違い。


 しかし理屈の上でそうであったとして、懐具合は必ずしもそうではない。

 むしろ経済力の差はそのまま生きやすさ、人生の余裕――究極的に言えば「嫌なことから逃げられる確率」に直結する。

 至極単純な話をすれば、一生遊んで暮らせるだけの金があれば働かずに好きなことだけしていてもいい訳だ。つまり、乗りたくもないすし詰め電車に乗って会いたくもない上司にされたくもないパワハラを受けながら、やりたくない仕事を毎日やりたいことであるかのように長時間取り組む必要だってない。


 ここまでを纏めるとこうだ――生まれながらに金になる分野と無縁だった者は、嫌なことから逃れることは出来ない。それは別に本人の性格的な問題とか、社会構造とか、そういう事だけの話ではない。単純に、そうする以外に生きていく道がないからだ。

 そして、どれ程強靭なメンタルの持ち主であっても、苦痛に永遠に耐えることなど出来はしない。

 ましてや、ごく普通の安月給のサラリーマンともなれば猶更だ。


「ちっ……」

 月曜日、差し込む朝日に舌打ちをしながら家を出た。

 行先など今更考えるまでもない。長らくの習慣になっていたためポケットにはスマートフォンを入れてはいるものの、いつだってただ着信しないことだけを祈っている。

 問題はない。どうせ繋がる相手などそれを望まない相手ばかりだ。

 もし俺に長所というか才能があるとすれば、それは「何もしないでいることを苦痛に感じない」というただその一点だけだろう。

 人付き合いは昔から苦手だった。親や教師が何を言おうと、たまたま居合わせただけの同年代の子供とうまく付き合うことは出来ず、いつだって喧嘩別れか、或いは初対面から一切距離が変わらないかばかりだった。


 対人関係を避けるようになったのはいつ頃からだったのか、正確にはもう思い出せない。だが、小学生の頃には既にそうだった気がする。

 教育熱心な我が家の唯一の男児=俺に対する方針は「強く逞しい男」という、今日日時代錯誤な気さえするもの。だが少なくとも、両親は本気だった。一体何に影響されての事かは分からないが、泣けば泣くなと叱られるばかりで、優しくされた記憶など残っていない。

 俺の両親の質実剛健な教育方針はやがて、それ程長い時間をかけずに「私たちに手間を掛けさせるな」に変貌していた。本人たちにその気があったのかは分からないが、少なくとも今にして思えばそう考えるのが自然な言動はいくらでも思い出せる。


 その隠れ蓑として、彼らの“立派な教え”はとても優秀だった。常に「先生含め世間に迷惑をかけてはいけない」という事を徹底していた。

 勿論、それは往々にして正しいのだろう。だが教師の立場に立ってみれば、我が子が揉め事を起こした時にまず有無を言わさず自分の子供を叱り飛ばす家庭と、学校に怒鳴りこむモンスターペアレントと、より相手にしたくないのはどちらかを考えれば、自ずと子供の扱いにも差が出てくるというものだ。

 その結果、誰かとこじれて喧嘩になると、いつだって俺が悪いという事になっていた。


 結局、俺は“便利な”子供だった。トラブルは俺のせいにすればよいのだから。


 俺の通っていた小学校には片親の子供もいたし、諸事情あって生活に困窮している子供もいたし、外国人の子供もいた。

 そしてそれは、教師にとっては水戸徳川家の印籠のようなものだ。

 〇〇君の家はこれこれこういう理由で大変なのだから云々――それを並べ立てれば、簡単に決着出来た。両親が健在で食うに困らないことは、つまり悪い事だった。

 勿論それについて親に訴え出るような真似は出来ない。それをすれば返ってくるのは「甘えるな」「終わったことをぐちぐちと情けない」最大限寛容な表現なら「お前が大人になって我慢しろ」辺りだろうか。

 きっと、そういうスパルタ教育でもうまく彼らの望み通りに育つ子供もいるのだろう。多分、きっと、100人いれば1人ぐらいは。


 問題は、その息子は99人の側だったという事だ。


 子供同士など、一切喧嘩をしないなど不可能で、その度に一方的に加害者扱いされ続けた子供が、やがて人付き合いそのものを割に合わないものと考えるようになるのは、何も特殊な例ではなかったと思う。

 そして中学、高校と、これが尾を引いた。

 人に言わせれば昔のことをいつまでも、と言われるかもしれないが、一度ついた習い性はそう簡単に抜けてくれない。

 他人=敵であった人間にとって、中高の六年間など警戒を解かせるのにはあまりにも足りなかった。


(つづく)

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