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拝啓、後夜祭より  作者: 九木圭人
丘の町
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丘の町6

「……ご存知……ですか?」

 そう聞き返されて、しかしどういう訳か、俺は――自分で聞いておいておかしな話だが――碌な答えを持ち合わせていなかった。

 確か「うん」だか「はい」だか曖昧な肯定を返したような気がする。

 だがそんな言い方でも結果としては通じていたようだ。彼女は少しだけ笑って、自らの席に置いたままになっている、半分ぐらい中身の残っているアイスティーのグラスを煽る。

「ありがとうございます。随分懐かしい気がするなぁ」

 そう言いながら、彼女は自らが先程まで描いていたのだろう、その原稿を指先ですっと撫でた。


「……まだ、描かれていたんですね」

 言い終わってから、はっとして言葉を続ける。

「ああいえ、変な意味ではなく……」

「大丈夫ですよ」

 その姿が面白いとばかりに、伊庭18先生=ネット上でのトラブルと出版社とのトラブルとが原因で筆を折ったその人は笑った。


「……本当はね、出版する気も、あんな風に人気になるつもりもなかったんです」

 一笑いしてからしみじみと、俺が昨日まで――そして今日もそうするつもりだった――眺めていた窓の向こうの景色に目を向けて、彼女は漏らす。

「……ああ、ごめんなさい。突然こんな――」

「あっいえ。続けてください」

 ただの野次馬根性。それが正直なところだ。

 だが、それでも相手が話してくれようとしているのを無視するのは悪い。

 注文を取りに来た店員に最早お馴染みのブレンドコーヒーを注文すると、再び彼女の方へ。

「正直、気になっていました。どうして突然創作活動を辞めるとおっしゃったのか」

 良くあることだ――本当に正直なところを言えばそう思った。だが、話を聞くのにそれではまずい。


 幸い、俺のそんな事情は彼女にはバレなかったようだ。

「……私ね、正直嫌になっていた。創作活動がお仕事みたいになってきたのが、どうしても嫌だったんです」

 門外漢の俺にはよく分からない感覚だった。

 彼女は元々漫画家になりたかったのではなかったのか。何となく、創作活動をしている人は最終的にプロを目指しているのだと、勝手に思っていたのだが、どうも彼女の場合はその例外らしい。


「元々漫画を描き始めたのは高校生の時で、本格的にやり始めた大学の漫研に入ってから。その頃は描くのが楽しくて楽しくて……でも、二年生の冬ぐらいからちょっとずつ勝手が変わってきて」

 そこでもう一度飲み物で唇を湿らせる。

「その当時、私のいた漫研から、プロデビューした先輩がいたんですよ。それから少しずつ『その先輩に続け』みたいな空気が出来始めた」

 今となっては懐かしい思い出――窓の外をぼうっと眺めながら話す彼女の表情からは、なんとなくそんな感情が読み取れる。


「最初のうちは、その先輩に近しい人が数人そう言っていただけだったけど、段々そういう空気の方が強くなっていって……三年生の夏前には、もうプロのファームみたいな状態でした。何が売れるのか、より人気になるのは何か……みんなでそういう『正解探し』をするようになって、私は辞めたんです。どうしても合わなくて」

 まあ、そういう空気は何となく分かる。

 熱血スポ根な世界観は、楽しいのは本人たちだけで、付き合わされている人間にとっては鬱陶しくて居心地悪いことこの上ない。


「漫研を辞めて、自分の好きなように、自分の思うように描き続けて、それをネットに公開していたら、何が受けたのか人気が出て、それをまとめた本が出た。……でも、それきり。自分でも『何が受けるのか』『どうすれば売れるのか』を考え始めて、それがどうしても辛くて、それで辞めました」

 そう言って、それを締めにするようにいたずらっぽく笑うと、残っていたアイスティーで再度唇を湿らせる。

「今描いているのも、どこかに公開したり、書籍にするつもりはない。ただ自分の描きたいものを、自分の描きたいように描く。誰か読者がいるとすれば、これを完成させた後の、それからしばらくした後の未来の私……だと思います」


 そこまで言うと、彼女は一度俺の方を見て、それから小さく頭を下げる。

「だからごめんなさい。私はもう伊庭18じゃないです。ただの伊庭佳奈子です」

 正直に言うと少し残念ではあった。

 だがそれ以上に、納得がいった。

 日本にいた頃、彼女が突然筆を折ったという話と、ネット上からも突然姿を消したと知って、一番辛いときを支えてくれた――というより、だらだらとそれを眺め続けることが唯一心の安定を保てるものだったという経験から、一方的に親近感のようなものを感じて残念がっていた記憶があるのだが、こういう理由ならば、そして今彼女が楽しいのならこれ以上俺が口を挟む話ではない。


 彼女はきっと漫画が好きだったのだ。漫画で評価されることがではなく、漫画を描くことが。

 それはきっと、近いようで遠いものなのだろう。

 自分が本当に面白いと思うものを面白いと思うように描く。いつの間にかただそれだけの事が出来なくなってしまったのだとしたら、彼女のような人間にとっては辛い事だろう。

 なら、そんな辛さから解放されて、大勢の読者も商業的成功も関係なく、本当に描きたいことを描きたいように描けるのなら、彼女にとって今の環境はきっと素晴らしいものだろう。


 発見:他人に優しくなるには自分に余裕がないといけないというのは、どうやら間違いないらしい。


 今の俺の立場とその意見とが、そのことを強烈に再認識させた。

「成程……そういう事でしたか」

「ええ。もし、好きでいてくれたのなら申し訳ないですけど……」

「いえ、確かに一時期よく読んでいました。仕事で辛い時期には、あなたの漫画だけが支えになっていたこともある。でも……今はこの通り、こっちに来ましたから」

 こっちに来た――それがこの世界で出会った同郷の人間にとってどういう意味を持つかは、説明の必要がないだろう。


「お待たせしました」

 それからすぐに運ばれてきたブレンドコーヒーが合図となったように、俺たちはただ居合わせただけの客に戻る。

 彼女は自分の席に着くと一度大きく伸びをして、それから原稿の残りを仕上げにかかる。

 それまでとは別人のような集中力でペンを走らせるその姿は、成程好きでなければ成り立つまい。


 俺は邪魔にならないようそっと自分の席に着き、いつものように壁を背にすると、それを視界の片隅に入れながら今日も窓の外の景色をぼんやりと眺め、じんわりと温かいコーヒーを口の中に転がした。


(つづく)

今日はここまで

続きは明日に

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