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拝啓、後夜祭より  作者: 九木圭人
丘の町
16/34

丘の町5

「お決まりでしたらお呼びください」

 メニューに目を通す。昨日は気づかなかったが、アルコールも提供しているようだ――と言っても、所謂居酒屋のようなバリエーションがある訳ではなく、数種類カクテルが置かれているだけだが。

「酒か……」

 思えば久しく飲んでいないが、メニューのその部分は一瞥するに留めてコーヒーの方に視線を戻した。帰りも自転車をこぐことを考えると酒を飲む気にはならないし、別に昼間から煽るほど好きでもない。


 結局、昨日と同じブレンドコーヒーを注文して、温かく湯気の立ち昇る昨日と同じコーヒーを飲みながら、昨日とは打って変わって穏やかに晴れ渡っている窓の外を見るでもなくぼうっと眺める。

 何もしない静かな時間、のんびり過ぎていく時間――日本にいた頃に素晴らしく贅沢な時間の使い方だと思っていたそれは、実際にやってみると特に何の感情も生み出さない。

「いや……」

 きっと、それがいいのだろう。実際俺は結構気に入っている。

 少なくとも、何も考えずぼうっと窓の外に広がる景色と、その向こうに見える果てしない海を眺めながらコーヒーで喉を湿らせるだけの時間は少なくとも苦痛ではないし、何もしないでいられる――ついでに言えば、視界の隅にせわしなくペンを動かしている先客の姿がちらちら映るのも却って落ち着く。

 こうして何もせずに時間を潰す。それをしていても勿体ないとか、無駄遣いとかそういう気持ちにならないし、焦りも生まれない今の環境は、改めて有難いものだ。


「ふぅ……」

 コーヒーを干して、その温かな液体と湯気が胃から全身を温めるのを待ってから、一息つくのを合図に体を椅子から離す。

「ごちそうさま」

 店を出て、再度自転車を押す。しばらく通う事になりそうなその店に背を向けて、丘の町の残りを探索するべく、昨日家路についた交差点まで進んでから、昨日とは別の方向へ。

 何もない静かな町をぐるりと回ってから、改めて昨日と同じ内陸を進む道へ戻り、穏やかな日差しの中を進んでいく。

 静かで、穏やかな時間。久しくしていなかった鼻歌が、不意に口をついた。


 その帰路の最後、坂道を下って、その勢いのまま自宅前まで走っていくと、ちょうど海沿いの道に降りる階段から新川さんが上がってくるところに出くわした。

「やあ、どうも」

「あっ、どうも」

 今日もサックスのケースを担いだ新川さんとそれだけ言葉を交わす。

「お出かけですか?」

「はい。丘の町まで」

 自転車を降りてそういうと、今まで俺がいたその町の方向に彼も首を向けた。

「大変でしょう、自転車でこの坂道は」

「ええ。なので、行きはそっちの……海沿いの道を使っていきました」

 まあそうだろう――そんな風に取れるちいさな頷きが何度か続き、それから彼の視線はその海沿いの道の進行方向へと向きを変える。

「海沿いの道というと、あの橋の残骸の向こうだ」

「あっ、そうです。ご存知ですか」

 じっと、そちらを見ながら彼は続けた――何か古い記憶を噛みしめるように。

「……ここからはどこにも行けない」

「えっ?」

 聞き取れなかった訳ではない。

 ただ、あまりに突然のその言葉の意味を正確に理解するのはノーヒントでは多分不可能だろう。


「ああいや失礼。昔、私がまだこっちに来た頃にね、丘の町に住んでいた人が言った言葉です。それを聞いて、私も昔はあの橋の向こうに行ってみる方法はないか……なんて考えたりしましたがね、まあ、今は冒険よりここでの暮らし――」

 そこで言葉は途切れ、代わりに出てきたのは、激しい咳。

「大丈夫ですか!?」

「……ああ、ああ……失礼。全く……ハハ、歳はとりたくないね」

「お大事になさってくださいね」

 お互い、これが潮時だと何となく察してそれぞれの進行方向=互いの家の玄関の方へと向きを変える。

 むせ返った前と比べて少し血の気がひいていたように思えて、少し心配だったが、自転車を止めて玄関のかぎを開ける時に新川さんの家の方に目をやると、彼の足取りはしっかりとしていた。

 まあ、具合が悪い時だってある。彼が俺と同じ処置を受けているのなら、健康管理は体内に埋め込まれたデバイスでなんとか出来るだろう――それを、彼を意識の外に放り出すための言い訳にして、俺は家の中に滑り込んだ。


 また次の日、俺は同じルートで丘の町を目指して家を出る。

「おはようございます。今日もお出かけですか?」

「ええ。丘の町まで」

 家を出たところで出くわしたカンナさんと言葉を交わし、彼女に見送られて自転車のハンドルを取る。

 同じように海沿いの道を進み、同じように橋の残骸の少し先で町への分岐へ。今日はやや風があるのか、打ち寄せる波が白いような気がする。

「本日天気晴朗なれども波高し……だっけか」

 何で聞いたのか忘れた台詞が口を突き、実際海から吹く風に背中を押されるようにして丘の町への道を進んでいく。

 今日も昨日と同様にゲートをくぐって町の中へ。同じ街並みを、昨日と同じように少し散歩してから『ヒルトップ』へ。


「いらっしゃいませ。空いているお席にどうぞ」

 これまた昨日と変わらない展開。

 昨日と異なるところがあるとすれば、昨日まではいつもの席にいた先客が、俺が昨日までの席につこうとした時に店の奥からやってきたということ。

 恐らくトイレだろう――そう思ってすれ違おうとした瞬間、互いの肩が少しだけ当たった。

「「あっ、すいません」」

 同時に声。からん、と彼女のテーブルから小さなストラップが転がり落ち、反射的に床に落下する前に拾い上げた。

「たらゴリラ……」

 たらこにゴリラの顔と手足が生えたようなキャラクター。日本にいた頃、少しだけハマったそのキャラクターを覚えていたのは自分でもよく分からない。


「すいません。ありがとうございます」

 と、しげしげと見つめる訳にもいかず、持ち主の先客に返す。

 ――と、その時に目に入る、机上の原稿=たらゴリラと同じタッチのキャラクターが書かれた四コマ漫画。

「!」

 たらゴリラは一時期インターネット上で有名になったキャラクターだ。

 元々はネット上で連載していた作品だったが、途中から人気が出て書籍が1巻だけ発売されたのを覚えている。


「あの……」

 その記憶が蘇ったからか、そして俺がたらゴリラを見つけたのが、仕事が一番辛かった時だったが故に懐かしさを覚えたのか、いずれにせよいつもの俺ではあり得ないだろう行動だった。

「……もしかして、伊庭18先生……ですか?」

 はっとしたように、彼女が俺を見上げた。


(つづく)

今日はここまで

続きは明日に

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