新生活3
穏やかな日差しに西からの微風。寒くも暑くもない気温と不快感のない湿度=絶好の散歩日和。
海沿いの道路に向かって続いている小さな階段を下っていく。持ち物は家の鍵と、支給されたスマートフォンを入れた、これまた支給品のヒップバッグだけ。
日本にいる頃から使っていたそれは、こちらに来て以降ただの板切れになった。まあ、恐らく電波も拾わないだろうし、登録されている番号からかかってくることは永遠にないだろう。
こちらのスマートフォンも俺の使っていた機種に似ているが、何に使うのか分からないような大量のアプリはなく、メールと通話、そしてカメラと、この板切れを便利グッズにするためのアプリがいくつかだけのシンプルなそれ。
別に連絡を取る相手などいないのだが、支給品ということは何らかの連絡が誰かから入ることもあるという事なのだろう。
サラリーマンの、というか現代人の悲しい性という奴だろうか。心当たりなどなくても一応いつでも連絡が取れるようにしてある。
とはいえ荷物はそれだけ。その身軽な格好で自分でも珍しいと思うほどに足取り軽く階段を降りると、西に向かって歩き出す。
特にこれと言って何をする訳でもないし、一応の目標は一昨日見かけた灯台としているものの、それだって何としてでもたどり着かなければいけないという訳ではない。
「足の向くまま気の向くまま……ってやつか」
自分でもそんな気分になった理由はよく分からない。せっかくの晴天なのだから家に閉じ籠ってばかりも勿体ないなどと、一体己のどこから湧いてきた考えなのか。
とにかく、俺は歩き始めた。道路の脇に設けられた一人分ほどの幅の歩道を、以前見かけた灯台に向かって。
「……」
静かな道。舗装はされていて、恐らく定期的にメンテナンスも行われているのだろう道路は、路面の状態はいいが一台も車の姿はなく、遠くから近づいてくるエンジン音もない。
聞こえて来るのは左手側、数mの崖の下に広がる海の、護岸に寄せては返す波の音だけ。
静かで一定のペースのそれは、不思議なほどに心を落ち着かせて、ただ足を動かすことだけに意識を集中させてくれる。
曲がりくねった道を進み、時折海側に突き出した場所にベンチが置かれているのに出くわす。
「休憩所……かな」
俺以外にも「せっかくだからこの道を歩いてみよう」と考えた者がいるということだろう。
そしてそれは、急激な人口減少を迎えているらしいこの世界においても、この近くに俺とカンナさんや新川さん以外の人間がいる証拠のような気がして、なんだか妙な気分だった。
この前カンナさんが言っていた丘の町という所の住人だろうか、この世界のどこかにも人が集住する場所があって、そこで暮らしている人間がこの辺りまで来るのだろう。
「今度行ってみるかな」
別にその誰かに会いたいという訳ではない。色々親切にしてくれるカンナさんに対してすら心を許せないのだ。赤の他人に顔を合わせたいなどという奇特な思考は持っていない。
ただ、どこかにあるらしい未知の町をこの目で見てみたいという興味というか、野次馬根性のようなものが湧き上がってきたのも、また事実だ。
きっと、こういうのを余裕があるというのだろう。
そして有難いことに、その興味だか野次馬根性だかを満たす時間はいくらでもある。
「フフッ」
思わず笑みが漏れ、それが全身に活力となって循環しているかのように、俺の足取りは更に軽くなっていった。
それからさらに進んだ先に、件の休憩所が再度現れた――そこに一人佇む新川さんと共に。
「おお、こんにちは」
向こうが気付いてこちらに振り向く。
「こんにちは」
挨拶を返しつつその手の中のものに目を落とすと、年季の入ったサックスの真鍮色が日の光を鈍く反射している。
「サックス、やられるんですか?」
「まあ、年寄りの道楽ですがね。日本にいた時から時々触ってはいましたが、こうして毎日まとまった時間が取れるようになってからは、こうして海を見ながら練習しています」
そう言って、彼は灰色の海を見下ろす。
岸壁から突き出したようなこの休憩所は、転落防止用の太い丸太の柵がなければ、海を客席とした巨大な劇場の舞台のようにも思える。
と、その客席がわりの海の、静かな波の音に一つ二つ空咳が混じった。
「……っと、ここは気に入っていますが、海風に吹かれるのだけは少し玉に瑕だ」
そう言って笑いながら、改めてサックスを構える。
俺は一礼して彼の演奏を邪魔しないように再度歩き出した。軽快なジャズに背中を押されて進むその先に、件の灯台が見え始めてきた。
新川さんのいた休憩所よりも更に海に突き出した――というか岬の先端に位置するということも分かるほどの距離まで近づいて、ラストスパート。
海岸線に沿って曲がりくねっているその道沿いに、時に海に押されるように入り江のような地形になり、或いは反対に海に突き出していき、ようやく背の高い草に覆われた岬にたどり着いた時には、ほんのりと体が温まるぐらいの運動量にはなっていた。
「着いたぞ」
誰に言うでもなく呟いて、その岬に足を向ける。休憩所を囲んでいたのと同じような柵で道路と区切られているが、岬の真ん中を貫いている細道の部分だけはその柵が途切れていて、道の幅とその部分とが同じ広さなことから、初めから人が立ち入ることを想定しているのだろう。
その想定通り、黄土色の土の道をそびえ立つ灯台に向かって進む。
恐らく無人なのだろう灯台は、まだ日中だからか光を放つことはない。
――もっとも、夜間でも実用されているのかは分からない。現代の船だってGPSやレーダーで己の位置を知れるだろうし、そもそもこの世界=極端な人口減少によって都市国家すら維持できなくなっているという状況で頻繁に船が通りかかるとも思えない。
となれば、思いつく理由は一つだ。
「俺みたいな人間用か……」
暇を持て余して、ひとつあそこまで行ってみるかなどと気まぐれに散歩してみる人間向けの、言うなれば観光用の灯台。
ならば、そのご厚意に甘えさせてもらうとしよう。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に




