第九話 温泉魔物とパティの救出
目が覚めると、窓の外が白み始めていた。部屋の中はまだ薄暗い。だが、手に伝わる温もりだけははっきりと感じられた。
俺は視線を落とした。スヴィーナの手が、俺の手を握ったままだった。彼女の寝息が静かに響いている。銀髪が枕に広がり、猫耳がぴくりと動いた。
(……そうか、握ったままだったのか)
俺は手を離そうとした。だが、スヴィーナの指が微かに動いて、俺の手を握り返す。
「……ん」
彼女が小さく声を漏らした。青い瞳がゆっくりと開く。俺と目が合った。
数秒の沈黙。
「……おはよう」
俺が先に声をかけた。
「おはよう、マックス」
スヴィーナが微笑む。だが、手は離さない。俺も離さなかった。
窓の外から、荷車の音が聞こえてくる。鎖が擦れる音。誰かの怒鳴り声。市場の準備が始まったのだろう。
「……行こう」
俺は手を離して立ち上がった。腰の剣を確認する。首にかけた勾玉が冷たい。
「温泉の場所、聞かないと」
「うん」
スヴィーナも起き上がった。白い旅装束を整え、細い剣を腰に下げる。彼女の手が古いペンダントを握りしめた。
二人で宿を出る。朝の冷たい空気が肌を刺す。通りには既に人の姿があった。荷物を運ぶ者、店の準備をする者、そして――鎖に繋がれた獣人たちを引く奴隷商人。
俺は拳を握った。だが、足を止めなかった。
「すみません」
俺は近くの露店の主人に声をかけた。中年の男が顔を上げる。疲れた目をしていた。
「封印された温泉は、どこにありますか?」
男の顔が強張った。
「……温泉?」
「ええ。封印された温泉があると聞きました」
男は周囲を見回した。誰も聞いていないことを確認してから、小声で言った。
「国の中心にある。古い石造りの建物だ。だが、近づくな。魔物がいる」
「魔物?」
「ああ。黒い瘴気が漂っていて、近づいた者は戻ってこない。十年前から封印されたままだ。反抗的な奴隷を生贄としてあの廃墟に縛り付け、見せしめにする悪徳商人までいるという噂だ」
男の声が震えている。恐怖と諦めが混じった表情だった。
「……ありがとうございます」
俺は頭を下げた。男は何も言わず、また作業に戻った。
「行くの?」
スヴィーナが隣で囁いた。
「ああ」
俺は勾玉を握りしめた。温かい光が手のひらに広がる。
「一緒に行く」
スヴィーナが俺の腕を掴んだ。彼女の手が震えていない。青い瞳が真っ直ぐ俺を見つめている。
「……ああ」
俺は頷いた。二人で国の中心へ向かう。
◇
石造りの建物は、思っていたより大きかった。崩れかけた壁。割れた窓。そして、建物全体を覆う黒い瘴気。鼻を突く腐臭が漂っている。
「これが……温泉?」
スヴィーナが顔をしかめた。
「ああ。封印されている」
俺は勾玉を握った。光が強くなる。瘴気が微かに揺らいだ。
「中に入るぞ」
「うん」
二人で建物の中に入った。足元に割れた石が転がっている。壁に這う蔦が枯れて黒く変色していた。
そして、建物の奥――温泉があるはずの場所に、それはいた。
黒い触手が蠢いている。人の背丈ほどもある塊から、無数の触手が伸びていた。
そして、その触手に縛られた少女がいた。犬耳の少女。昨日、奴隷市場で見かけたあの子だった。
「あの子……!」
俺は叫んだ。だが、彼女は反応しない。虚ろな目で宙を見つめている。首の焼印が鈍く光っていた。
「マックス、魔物が!」
スヴィーナの声が響いた。触手が俺たちに向かって伸びてくる。俺は剣を抜いた。触手を切り払う。黒い液体が飛び散った。
「スヴィーナ、俺が解放の儀式を行う! その間、魔物を引きつけてくれ!」
「分かった!」
スヴィーナが左から跳躍し、鋭い一閃を浴びせる。俺は勾玉に意識を集中させた。脳裏に映像と儀式の手順が流れ込んでくる。
「古き湯よ、封じられし命よ、今ここに解放を――!」
詠唱とともに勾玉から青い光の筋が伸び、不気味な魔物を包み込んだ。解呪の光に触れ、魔物が悲鳴を上げる。触手の動きが鈍くなった。
「今だ、スヴィーナ!」
「任せて!」
スヴィーナがしなやかに舞い上がり、細い剣で魔物の中心を深く貫いた。魔物が激しく爆ぜ、黒い液体となって床に崩れ落ちる。
触手が力を失い、少女の拘束が解けた。彼女が床に倒れ込む。俺は駆け寄ろうとした。
その時だった。
「待て」
背後から声がした。冷たい、低い声。
振り返ると、入口から奴隷商人が姿を現した。俺たちが魔物を倒し、瘴気が完全に消え去ったのを見計らって入ってきたらしい。太った体に高価な服。手には鞭を持っている。
「その奴隷は、俺の所有物だ」
「……何だと?」
俺は剣を握りしめた。
「聞こえなかったか? その犬耳の奴隷は、俺が金を出して買った。正式な所有物だ」
奴隷商人が鞭を地面に叩きつけた。乾いた音が響く。
「人を物として扱うな!」
俺は叫んだ。だが、奴隷商人は鼻で笑った。
「このルーガリア公国では、借金を返せない者や罪人が奴隷になるのは合法だ。お前に何の権利もない」
「マックス……」
スヴィーナが俺の腕を掴んだ。彼女の手が震えている。
「……お金で、買い取れないの?」
スヴィーナが小さく言った。奴隷商人がにやりと笑った。
「買い取る? いいだろう。金貨百枚だ」
「百枚……!」
俺のポケットには、金貨が五枚しかない。
「明日の朝までに金を用意しろ。さもなくば、この奴隷を連れ戻す」
奴隷商人はそう言い残して、踵を返した。足音が遠ざかっていく。俺は拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。
封印の紋様が砕け、温泉から、透明な湯が湧き出し始めていた。瘴気が消え、温かい湯気が立ち上る。だが、俺の心は冷たいままだった。




