第八話 奴隷市場の国
窓の外で風が止んだ。部屋の中には二人の呼吸の音だけが残っていた。
スヴィーナの手が俺の手を離れる。温もりが消えていく。
「もう寝よう、マックス」
「ああ」
俺は窓を閉めた。外の冷気が遮断され、部屋が少しだけ暖かくなる。
スヴィーナはベッドに横になった。俺は木の椅子に腰を下ろし、靴を脱ぐ。革の匂いと汗の匂いが混じっている。
「明日も早いから」
「そうだな」
スヴィーナが目を閉じる。銀髪が枕に広がった。猫耳が小さく動く。
俺は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。木目が月明かりに浮かんでいる。
眠れなかった。目を閉じると、宿の主人の顔が浮かぶ。あの冷たい視線。獣人は裏口から入れ、という言葉。スヴィーナの寂しそうな笑顔。
(何もできなかった)
拳を握る。爪が掌に食い込んだ。痛みが怒りを呼ぶ。だが、怒りをぶつける相手もいない。
隣でスヴィーナが寝返りを打った。彼女の呼吸が聞こえる。規則正しく、穏やかな呼吸。俺は目を閉じた。
◇
翌朝、俺たちは宿を出た。主人は鍵を受け取ると、無言で扉を閉めた。
スヴィーナは何も言わず、街道へ歩き出す。俺は彼女の後を追った。
朝日が昇り始めている。空が橙色に染まっていく。風が吹いて、スヴィーナの髪が揺れた。彼女は振り返らない。ただ前を向いて歩いている。
「次の国まで、あとどれくらいだ?」
「五日くらい、かな」
「そうか」
会話が途切れる。二人の足音だけが響いた。街道は平坦で、歩きやすい。だが、重い空気が二人の間に漂っていた。
昼過ぎ、俺たちは小さな泉で休憩を取った。スヴィーナは水を汲み、俺は木陰に座る。彼女が水筒を手渡してくれた。冷たい水が喉を潤す。
「ありがとう」
「うん」
スヴィーナは俺の隣に座った。猫耳が風に揺れている。遠くで鳥が鳴いた。
「マックス」
「なんだ?」
「あのね……昨日のこと、気にしないで」
「気にしないわけにはいかないだろう」
スヴィーナが首を横に振る。
「慣れてるから。本当に」
「慣れてるって言葉が、一番辛いんだよ」
スヴィーナが黙り込んだ。風が吹く。泉の水面が揺れた。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
俺は立ち上がった。水筒を腰に下げ、荷物を背負う。スヴィーナも立ち上がる。
「行こう。次の国に」
「うん」
二人は再び歩き始めた。
◇
五日間の旅は静かだった。街道を歩き、野宿をし、時々村で食料を買う。スヴィーナは相変わらず寡黙で、俺も多くを語らなかった。
そして五日目の夕方、俺たちはルーガリア公国――獣人の国の城下町に到着した。
町の入口で、異様な光景が目に飛び込んできた。
鎖の音が響いている。金属が擦れる、冷たい音。俺は足を止めた。スヴィーナも立ち止まる。
「……奴隷市場」
スヴィーナが小さく呟いた。
市場の中央に、鎖に繋がれた獣人や亜人が並んでいる。猫耳、犬耳、兎耳、角を持つ者。皆、首に鉄の輪をはめられ、奴隷商人の声が響く中、虚ろな目で立っていた。
「さあさあ、見てってくれ! 若くて元気な獣人だ! 力仕事にも、屋敷の奉公にも最適だぞ!」
商人の声が耳に突き刺さる。俺の拳が震えた。
「マックス……」
スヴィーナが俺の袖を引く。彼女の手が震えている。
「この国では合法なの。私たちにできることは限られてる」
「分かってる」
だが、拳は震え続けた。爪が掌に食い込む。血が滲みそうなほど強く握りしめている。
俺は市場の中心に足を踏み入れた。鎖の音が近くなる。獣人たちの汗と恐怖の匂いが鼻をつく。
奴隷商人が笑っている。客が値段を吟味している。
(何もできない)
拳を握りしめたまま、俺は立ち尽くした。スヴィーナが俺の背中を見つめている。彼女は何も言わない。ただ、猫耳が伏せていた。
「……行こう」
俺は市場から離れようとした。その時、視界の端に犬耳の少女が映った。
茶髪のショートヘア。犬耳と尻尾。琥珀色の瞳。首には焼印があった。奴隷の証。
彼女は奴隷商人に引かれて歩いている。虚ろな目で、何も見ていない。ただ、命令に従って歩いているだけ。
「あの子……」
俺は一歩踏み出しかけた。だが、スヴィーナが俺の腕を掴む。
「マックス、ダメ」
「でも……」
「まずは温泉を解放しましょう。それが私たちの使命」
スヴィーナの声は冷静だった。だが、彼女の手は震えている。爪が俺の腕に食い込んでいた。
「……分かった」
俺は踏み出しかけた足を引っ込めた。犬耳の少女が遠ざかっていく。彼女の背中が見えなくなるまで、俺は立ち尽くしていた。
◇
その夜、俺たちは町外れの安宿に泊まった。部屋は狭く、ベッドは一つ。スヴィーナは窓辺に座り、外を見ている。
「……ごめんね、マックス」
「何が?」
「冷たいこと言って」
俺は首を横に振った。
「お前は正しい。温泉を解放するのが俺たちの使命だ」
「でも……」
スヴィーナが言葉を切った。彼女の手がペンダントを握りしめている。
「私も、助けたかった。あの子」
「……そうか」
俺はベッドに横になった。天井を見上げる。木目が月明かりに浮かんでいた。
「明日、温泉の場所を探そう」
「うん」
スヴィーナも横になる。二人の呼吸だけが部屋に響いた。
俺は目を閉じた。だが、眠れなかった。
犬耳の少女の虚ろな瞳が浮かぶ。焼印の痕が浮かぶ。そして、別の光景が浮かんだ。
炎。叫び声。倒れた仲間。
俺の手が届かない。何もできない。ただ、見ているだけ。
「すまない……守れなくて……」
俺は寝言を口にしていた。汗が額を伝う。呼吸が荒くなる。
「マックス!」
スヴィーナの声が聞こえた。彼女の手が俺の手を握る。温かい。
「大丈夫。ここにいるよ」
俺は目を開けた。スヴィーナの青い瞳が俺を見つめている。心配そうな顔。
「……悪い」
「ううん」
スヴィーナは俺の手を握ったまま、微笑んだ。
「マックスも、辛いんだね」
「……ああ」
俺は何も語らなかった。だが、彼女の手を強く握り返した。
「明日、温泉を解放する。そして、あの子を助ける」
「……うん」
スヴィーナが頷く。
二人は再び横になった。彼女の手が俺の手を離れない。温もりが伝わってくる。
窓の外で月が昇っていく。遠くで鳥が鳴いた。部屋の中には、二人の呼吸の音だけが響いていた。




