第七話 次の国への道と獣人の噂
街道を歩き始めて四日目の夕刻、俺の足は限界を迎えていた。靴の中で親指が痛む。汗が背中を伝って、旅装束が肌に張りついていた。
喉が渇く。水筒の水はもう半分以下だ。隣を歩くスヴィーナも、いつもより猫耳が垂れている。疲れているのは明らかだった。
「マックス、あそこ……」
スヴィーナが前方を指差した。街道の先に、宿場町の輪郭が見える。木造の建物が並び、煙突から煙が上がっていた。夕飯の支度だろう。焼いた肉の匂いが風に乗って届く。腹が鳴った。
「助かった。今日はあそこで泊まろう」
「うん」
スヴィーナが小さく頷く。猫耳が少しだけ立った。
町の入口に差し掛かると、数人の町人が井戸端で話し込んでいた。彼らは俺たちを見て、目を丸くする。
「おや、旅の方ですか」
中年の男が近づいてきた。日焼けした顔に、人の良さそうな笑みが浮かんでいる。
「ええ。宿を探しているんですが」
「宿なら町の中央にありますよ。それにしても……もしかして、あなたが噂の?」
「噂?」
俺は首を傾げた。男は興奮した様子で続ける。
「美人国の温泉を解放した旅人だって! 隣町の商人から聞いたんです。黒髪の若い男と、猫耳の少女が一緒だったって」
(もう噂が広がってるのか……)
美人国からここまで、徒歩で四日。隣町を経由したなら、商人が噂を運んだのだろう。俺は頷いた。
「ああ、それは俺たちだ」
「本当ですか! これはすごい。温泉が復活したんですね?」
「ああ。魔物を倒して、呪いを解いた」
男は喜びの声を上げた。周囲の町人たちも集まってくる。
だが、その中の何人かが、スヴィーナの猫耳を見て一瞬動きを止めた。視線が泳ぐ。口元が微かに歪む。
スヴィーナの猫耳が、ぴくりと伏せた。
「……マックス」
小さな声。俺は彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫だ」
町人たちは何も言わなかった。だが、視線の温度が微妙に下がったのは分かった。男は気まずそうに咳払いをする。
「宿は、あの通りをまっすぐ行った先です。どうぞ、ゆっくりお休みください」
「ありがとう」
俺たちは町の中へ入った。通りには露店が並び、野菜や布が売られている。子供たちが走り回り、犬が吠えていた。普通の、平和な町。
だが、スヴィーナの猫耳を見るたび、人々の表情がわずかに変わる。スヴィーナは何も言わなかった。ただ、猫耳をいつもより伏せたまま、俺の後ろを歩いていた。
宿屋は通りの突き当たりにあった。二階建ての木造建築で、看板には「旅人の宿」と書かれている。玄関の前に立つと、扉が開いた。
「いらっしゃい」
太った中年の男が顔を出した。宿の主人だろう。彼は俺を見て、笑みを浮かべる。
「お泊まりですか? ちょうど部屋が空いてますよ」
「ああ、頼む」
俺が答えると、主人はスヴィーナに視線を移した。猫耳が見える。その瞬間、主人の顔が変わった。笑顔が消える。眉間に皺が寄る。
「……獣人か」
声のトーンが下がった。スヴィーナが一歩後ろに下がる。
「獣人は裏口から入れ。玄関は人間用だ」
「何だと?」
俺は思わず声を荒げた。拳が勝手に握りしめられる。爪が掌に食い込んだ。
主人は俺を見て、肩をすくめた。
「決まりなんでね。獣人は裏口。嫌なら他を当たってくれ」
「彼女は俺の大切な仲間だ。一緒に泊まらせてもらう」
「仲間? ……はあ」
主人は面倒くさそうに溜息をついた。それから、じろじろとスヴィーナを眺める。
「まあ、金を払うなら泊めてやるよ。だが、獣人は部屋の隅で寝ろ。ベッドは使うな」
「ふざけるな!」
俺は一歩前に出た。主人が顔をしかめる。
スヴィーナが俺の袖を引いた。
「マックス、いいの」
「いいわけないだろ」
「慣れてるから。気にしないで」
スヴィーナが笑った。だが、その笑顔は寂しそうだった。青い瞳が俺を見上げる。猫耳が垂れたまま、尻尾も力なく揺れている。
「……本当に、慣れてるから」
俺は歯を食いしばった。怒りが喉の奥で燃える。だが、ここで暴れても何も変わらない。スヴィーナを守るには、まず宿を確保しなければ。
「……分かった」
俺は主人を睨みつけた。
「金は払う。だが、部屋は一つだ。彼女をちゃんとベッドで寝かせる。文句はあるか」
「……好きにしろ」
主人は鍵を投げてよこした。俺はそれを受け取り、スヴィーナの手を引いて階段を上がる。背中に主人の視線を感じた。
部屋は二階の奥にあった。鍵を開けて中に入ると、小さなベッドと木の椅子、窓が一つ。質素だが、清潔だった。
スヴィーナは窓辺に座り込んだ。外を見ている。夕日が彼女の銀髪を染めていた。猫耳が小刻みに震えている。
「スヴィーナ……」
俺は彼女の隣に座った。何と言えばいいのか分からない。ただ、彼女の横顔を見つめる。
「……お前の過去を、聞いてもいいか」
スヴィーナが振り向いた。青い瞳が俺を映す。それから、彼女は首を横に振った。
「いつか話す。でも、今じゃない」
「そうか」
スヴィーナは胸元のペンダントを握りしめた。銀色の鎖が指の間から覗く。古びた、大切そうなペンダント。
「ごめんね、マックス。まだ、話せない」
「いや、無理に聞くつもりはない」
俺は窓の外を見た。町の灯りが一つ、また一つと灯っていく。遠くで誰かが笑っている。平和な夜の音。
だが、スヴィーナの隣にいると、その平和が嘘みたいに思えた。
「……俺は、お前を守りたい」
「マックス……」
「でも、今日みたいなことが起きると、何もできない自分が情けなくなる」
スヴィーナが俺の手に触れた。柔らかい感触。
「マックスは、十分守ってくれてる。ありがとう」
彼女は微笑んだ。今度は、少しだけ本当の笑顔に見えた。
二人は沈黙の中で夜を過ごした。窓の外で風が吹く。遠くで犬が吠えた。
部屋の中には、二人の呼吸の音だけが響いていた。




