第十話 新たな仲間パティ
温泉から湯気が立ち上る。だが、俺の心は冷えたままだった。
倒れている犬耳の少女を見下ろす。彼女は床に横たわったまま、浅い呼吸を繰り返していた。犬耳がぴくりと動く。
「……名前は?」
俺が膝をついて尋ねると、少女は小さく身を縮め、怯えた瞳で俺を見上げた。
「……パ、ティ……」
掠れた、消え入りそうな声。
「そうか。パティ、もう大丈夫だ」
俺は静かに言い聞かせた。
「マックス……どうするの?」
スヴィーナが俺の袖を引いた。彼女の声が震えている。
「……分からない」
俺は正直に答えた。金貨五枚しかない。あと九十五枚、どうやって集めればいい?
(力だけじゃ、救えない……)
その時だった。
「あ、あの……!」
背後から声がした。振り返ると、住民たちが集まっていた。老人、若者、子供を抱いた女性。みんな、温泉の方を見ている。
「温泉が……温泉が戻った!」
老人が叫んだ。目に涙を浮かべている。
「本当だ……透明な湯が湧いてる!」
若者が温泉に手を浸した。湯気が顔に触れる。彼は目を閉じて、深く息を吸い込んだ。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます!」
女性が俺に頭を下げた。他の住民たちも次々と頭を下げていく。
「いや、俺は……」
言葉に詰まった。礼を言われる資格なんてない。パティ一人、救えないんだから。
「これ、受け取ってください」
老人が布の包みを差し出した。中には硬貨が詰まっている。金貨が三枚、銀貨が十数枚。
「え……?」
「少ないですが、私たちの感謝の気持ちです」
若者も財布を取り出した。金貨を二枚、俺の手に押し付ける。
「待ってくれ、そんな……」
俺は戸惑った。だが、次々と住民たちが金貨を持ってくる。一枚、また一枚。銀貨も山になっていく。
「マックス」
スヴィーナが俺の肩に手を置いた。温かい手のひら。
「……受け取って。これは、あなたが救った人たちの気持ちよ」
彼女の青い瞳が俺を見つめている。猫耳が小さく揺れた。
俺は硬貨を握りしめた。金属の冷たさが手のひらに沁みる。重い。こんなにも、重い。
「……ありがとうございます」
やっと、そう言えた。住民たちは笑顔で頷いた。一人、また一人と温泉に入っていく。湯気が立ち上り、硫黄の匂いが濃くなる。笑い声が響いた。
俺は硬貨を数えた。住民たちから集まった金貨は九十八枚。俺の手持ちと合わせれば百枚を超える。
(……これで、足りる)
胸が熱くなった。力だけじゃない。人の善意が、俺を救ってくれた。
「パティを、助けに行こう」
スヴィーナが言った。彼女の手が俺の手を握る。
「ああ」
俺は頷いた。
◇
奴隷商人の店は、市場の奥にあった。薄暗い路地。壁には鞭の痕が残っている。
扉を開けると、奴隷商人が椅子に座っていた。太った体を揺らして、こちらを見る。
「よく来たな。金は用意できたか?」
「ああ」
俺は袋を投げた。硬貨がぶつかり合う音。
奴隷商人は袋を開けて、一枚ずつ数え始めた。カチン、カチン。金属音が響く。俺は拳を握りしめた。
パティはスヴィーナに支えられながら、俺の後ろに立っている。スヴィーナが彼女の手を握っていた。パティはうつむいたまま、震えている。首輪の下から、焼印の痕が覗いていた。
「……ちょうど百枚だな」
奴隷商人が袋を閉じた。にやりと笑う。
「よかろう。この奴隷の所有権を放棄する」
「パティは物じゃない」
俺は低く言った。
「ふん。偽善者が」
奴隷商人が鼻で笑った。椅子から立ち上がる。
「お前のような甘い考えは、いつか必ず後悔する。この世界では力こそが正義だ。金も、力も持たない者は、踏みにじられるだけだ」
「力だけが正義なら」
俺は奴隷商人を睨んだ。
「お前はとっくに滅んでいる」
奴隷商人の顔が歪んだ。だが、すぐに笑みを浮かべた。
「……いつか必ず、仕返しをする。覚えておけ」
彼は俺の横を通り過ぎた。足音が遠ざかる。扉が閉まる音。俺は深く息を吐いた。
「……行こう」
スヴィーナが言った。パティの手を引いて、店を出る。
外に出ると、日差しが眩しかった。温かい風が吹く。だが、パティはまだ首輪をつけたままだった。
◇
温泉の建物に戻った。湯気が立ち上り、硫黄の匂いが漂っている。住民たちは温泉を楽しんでいた。
パティは床に座り込んでいる。首輪に手を当てて、じっと見つめていた。
「……外そう」
俺はパティの前に膝をついた。彼女がびくりと身を引く。
「大丈夫」
スヴィーナが優しく言った。パティの髪を撫でる。
「もう誰も、あなたを傷つけない」
パティの目から涙がこぼれた。透明な雫が頬を伝う。
俺は首輪に手をかけた。金属の留め具を外す。カチリ、と小さな音。首輪が外れた。パティの首に、赤い痕が残っている。焼印の痕。痛々しい。
「お前は自由だ」
俺は首輪を握りしめた。
「もう誰の所有物でもない」
パティは首に触れた。指先が震えている。
「じ、ゆう……?」
彼女が小さく呟いた。涙が止まらない。
「あたし……ご主人様は……」
「俺はご主人様じゃない」
俺は首輪を地面に叩きつけた。金属音が響く。
「お前は対等な仲間だ」
「な、かま……?」
パティが俺を見上げた。琥珀色の瞳が揺れている。犬耳が小さく動いた。
「そう。仲間」
スヴィーナが微笑んだ。
「自由の意味を、少しずつ教えてあげましょう」
パティはまだ戸惑っている。だが、涙を拭って、小さく頷いた。
俺は立ち上がった。窓の外を見る。青い空が広がっていた。
「次の国へ行こう」
スヴィーナとパティが頷く。三人で、次の旅が始まる。
だが、俺の胸には不安があった。奴隷商人の最後の言葉。
(いつか必ず、仕返しをする)
その声が、耳に残っていた。




