第十一話 三人の旅と犬耳少女の戸惑い
俺たちは温泉の建物を出て、宿場町へと向かう準備を始めた。
パティは俺の後ろを三歩下がって歩いている。犬耳が小さく揺れるたび、首の赤い痕が見える。焼印の痕。まだ消えていない。
「もっと前に来いよ」
俺が振り返って言うと、パティはびくりと身を縮めた。
「で、でも……ご主人様の後ろを歩くのが……」
「だから、俺はご主人様じゃないって」
俺は溜息をついた。
スヴィーナが俺の袖を引く。
「焦らないで」
彼女が小さく囁いた。
「長い間、奴隷だったのよ。一日で変われるわけがないわ」
(そうだよな……)
俺は自分の浅はかさを恥じた。自由を与えれば、すぐに変われると思っていた。だが、心の枷は簡単には外れない。
街道沿いの宿場町に着いたのは、三日後の夕暮れだった。空が赤銅色に染まり、風が冷たくなり始めている。
パティは相変わらず俺の後ろを歩いていた。指示がなければ動かず、俺の顔色をうかがい続ける。
「今夜はここに泊まる」
俺が宿の前で立ち止まると、パティもぴたりと止まった。彼女は地面を見つめたまま、何も言わない。
宿の主人が扉を開けて顔を出した。太った中年男で、人の良さそうな笑顔を浮かべている。
「いらっしゃい。三人かい?」
「ああ」
「三人部屋でいいかね?」
俺が頷きかけたとき、パティが小さな声で言った。
「あたしは床で寝ます」
その声は震えていた。当然のことを言うように、淡々と。
「何言ってんだ」
俺は振り返った。
「お前もちゃんとベッドで寝ろ」
パティは首を横に振った。犬耳が垂れている。
「奴隷が主人と同じようにベッドで寝るなんて……そんなこと……」
「だから、俺は主人じゃ――」
スヴィーナが俺の肩に手を置いた。その手に力がこもっている。
「無理強いはよくないわ」
彼女が静かに言った。
「パティが安心できる場所で寝かせてあげましょう」
俺は言葉を飲み込んだ。スヴィーナの青い瞳が、俺を諭している。
「……分かった」
宿の主人に三人部屋を頼み、中に入った。木の床がきしむ音が響く。窓から入る夕日の赤い光が、部屋を染めていた。
パティは部屋の隅に座り込んだ。膝を抱えて、じっと動かない。
「パティ……」
俺が声をかけても、彼女は顔を上げなかった。
◇
夕食の時間になった。宿の食堂は賑やかで、旅人たちの話し声と笑い声が響いている。料理の匂いが漂い、腹が鳴った。
テーブルに料理が並ぶ。焼いた肉、野菜の煮込み、黒パン、そしてスープ。湯気が立ち上り、香辛料の香りが鼻をくすぐる。
スヴィーナはすぐに食べ始めた。だが、パティは手をつけない。じっと俺の顔を見ている。
「食えよ」
俺が言っても、パティは動かない。
「……許可が出るまで、食べちゃいけないんです」
彼女が小さく呟いた。
「奴隷は、ご主人様が食べ終わってから……残り物を……」
俺は拳を握りしめた。奴隷商人の顔が浮かぶ。あの男が、パティにどんな扱いをしてきたのか。
「いいか、パティ」
俺は深呼吸してから言った。
「お前は自由だ。自分の食べたいものを、自分で選べ」
パティの琥珀色の瞳が揺れた。
「え……でも……」
「選んでいいんだ」
スヴィーナが優しく言った。
「あなたが食べたいものを、あなたが決めていいのよ」
パティの目から涙がこぼれた。透明な雫が頬を伝い、テーブルに落ちる。
「え……ら、んで……いいの……?」
彼女の手が震えながら、スープ皿に伸びた。指先がスプーンに触れる。カチャリ、と小さな音。
パティはスープをすくい、口に運んだ。一口飲む。そして、もう一度涙を流した。
「お、おいしい……」
彼女が囁いた。声が震えている。
「あたし……初めて……温かいうちに……」
涙が止まらない。スープの雫が皿に落ちる。
スヴィーナがナプキンでパティの涙を拭った。
「大丈夫よ」
スヴィーナが微笑む。
「これからは、いつでも温かいものを食べられるわ」
パティは頷いた。犬耳が少し立つ。彼女の尻尾が小さく揺れた。
俺は黙って見ていた。胸が締め付けられる。こんなに簡単なことが、彼女にとってどれほど大きな意味を持つのか。
(自由って、こういうことなんだな……)
◇
夜になった。部屋の中は静かで、窓の外から虫の音が聞こえる。風が吹いて、カーテンが揺れた。
パティは窓際に座っていた。ガラスに額を押し付けて、外を見ている。月明かりが彼女の茶色い髪を照らしていた。
「パティ」
スヴィーナが声をかけた。彼女はベッドに座り、古いペンダントを指先で撫でている。月光がペンダントを反射して、小さな光を放った。
「自由って……怖いです」
パティが小さく呟いた。
「選ぶって……どうすればいいのか……分からなくて……」
スヴィーナは静かに頷いた。
「私も昔、誰も信じられなかった」
彼女がゆっくりと語り始める。
「一人で戦い続けて、誰にも頼れなかった。自由だったけど、孤独だった」
「スヴィーナ……」
俺が呼びかけると、彼女は俺を見つめた。青い瞳が揺れている。
「でも、マックスと出会って……少しだけ、変われた気がするの」
彼女の手が、俺の手に重なった。柔らかくて、温かい。
「だから、パティも大丈夫」
スヴィーナが微笑む。
「少しずつ、慣れていけばいいのよ」
俺は一瞬硬直した。それから、彼女の手を握り返した。
「そうだな」
俺はパティを見た。
「焦らなくていい。少しずつ、一緒に進もう」
パティは初めて笑顔を見せた。小さく、だが確かに。犬耳が立ち、尻尾が揺れる。
「はい……ご主人……じゃなくて……マックス」
彼女が俺の名前を呼んだ。その声は、まだ震えていたけれど。
窓の外で、風が木々を揺らしている。虫の音が遠くで響いていた。
だが、その時。
遠くで馬の蹄の音が聞こえた。複数の馬。急いでいる。
俺は窓に駆け寄った。街道の向こうから、黒い影が近づいてくる。松明の光。武装した男たち。
そして、その先頭にいる男の顔を、俺には見覚えがあった。
奴隷商人だ。彼は大勢の用心棒を連れて、こちらに向かってくる。
「……来やがったか」
俺は呟いた。




