第十二話 森の国と薬草師の依頼
俺は窓から離れ、二人に振り返った。
「すぐに出る」
スヴィーナが立ち上がった。パティの犬耳がぴくりと動く。
「追手……ですか?」
パティが震える声で尋ねた。俺は頷いた。
「奴隷商人だ。大勢連れてる」
スヴィーナは荷物をまとめ始めた。動きが素早い。パティは固まったまま、窓の外を見ている。松明の光が近づいてくる。蹄の音が大きくなった。
「パティ」
俺が呼びかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。
「あたし……どうすれば……」
彼女の声が途切れる。犬耳が垂れ下がっていた。
「逃げるぞ」
俺は言った。
「お前を渡すつもりはない」
パティは俺を見つめた。琥珀色の瞳が揺れている。それから、彼女は小さく頷いた。
「あたし……」
彼女が口を開く。声が震えていた。
「あたし……逃げたい」
その言葉を聞いて、俺は息を呑んだ。パティが初めて、自分の意志を口にした。
「分かった」
俺は彼女の肩に手を置いた。
「一緒に逃げよう」
スヴィーナが荷物を背負い、俺たちの手を引いた。
「裏口から出ましょう」
◇
夜の森は静かだった。木々の間を縫うように走る。足元の枯れ葉が音を立てた。
後ろから、松明の光が揺れている。蹄の音が遠くで響いていた。
「こっち、にゃ!」
スヴィーナが猫耳を立てて、茂みの奥を指差した。
俺たちは身を屈めて、茂みの中に滑り込む。土の湿った匂いがした。虫の鳴き声が耳をつんざく。
松明の光が近づいてくる。男たちの声が聞こえた。
「この辺りのはずだ」
「見つけ次第、捕まえろ」
俺たちは息を殺した。パティが俺の袖を握っている。彼女の手が震えていた。
松明の光が茂みの前を通り過ぎる。男たちの足音が遠ざかった。しばらくして、森が再び静かになった。
「……行ったみたいね」
スヴィーナが小声で言った。俺は頷いた。
「まだ油断するな。夜明けまで動かない」
◇
夜明け前、空が白み始めた。鳥の鳴き声が森に響く。冷たい空気が肌を刺した。
パティは木の根元に座り込んでいた。犬耳が垂れ下がり、尻尾が動かない。彼女は膝を抱えて、小さく震えていた。
「パティ」
俺が声をかけると、彼女は顔を上げた。目が赤い。泣いていたのか。
「あたし……言えた……」
彼女が呟いた。
「逃げたいって……自分で言えた……」
俺は彼女の隣に座った。
「よく頑張ったな」
パティは俺を見つめた。それから、小さく笑った。涙が頬を伝う。
「ありがとう……マックス」
スヴィーナが俺たちの隣に座り、パティの頭を撫でた。
「これからも、少しずつ進んでいきましょう」
◇
五日間、森を抜けて歩き続けた。途中で何度か追手の気配を感じたが、森の奥深くに逃げ込むことで振り切った。
パティの鋭い嗅覚と、スヴィーナの優れた聴覚が役に立った。
六日目の朝、俺たちは再びシルヴァーナ公国――森の国へ入った。以前訪れた村とは離れた、森深くの小さな村で、家々の屋根は苔むしている。空気は湿っていて、薬草の匂いが漂っていた。
村の中心に、薬草師の小屋があった。干された薬草が軒先に吊るされている。
扉を開けると、さらに濃い薬草の匂いが鼻をついた。
「ようこそ」
奥から老人が現れた。白髪で背中が丸まっている。薬草師だろう。
「あんたたちが、噂の温泉を解放している旅人か?」
俺は頷いた。
「そうだ。この国の温泉はどこにある?」
薬草師は目を細めた。
「温泉が復活すれば、薬草がよく育つ。それは助かる」
彼は咳き込んだ。奥の部屋から、別の咳き込む音が聞こえる。病人がいるのか。
「だが、その前に頼みがある」
薬草師が言った。
「森の奥に、希少な薬草が生えている。それを取ってきてほしい。病人がいるんだ」
俺は眉をひそめた。
「温泉を先に解放すれば、病人の助けにもなるんじゃないのか?」
薬草師は首を横に振った。
「病人が死んでからでは遅い。温泉はその後でいい」
俺は拳を握りしめた。胸の中で何かが引っかかる。
(俺は温泉を解放するために来たんだ。それなのに……)
だが、奥の部屋から再び咳き込む音が聞こえた。苦しそうな、か細い声。
スヴィーナが俺の肩に手を置いた。
「マックス」
彼女が小声で言う。
「その依頼を受けましょう。病人を見捨てるわけにはいかないわ」
俺は黙り込んだ。彼女の言う通りだ。だが、なぜか素直に頷けない。
「あたしが!」
パティが前に出た。犬耳が立っている。
「あたしが薬草を見つけます! 鼻が利くから!」
彼女の尻尾が揺れていた。初めて、自分から動こうとしている。
俺は深く息を吐いた。
「……分かった」
◇
森の奥は暗かった。木漏れ日が地面に斑点を作る。湿った土の匂いと、腐葉土の匂いが混ざっていた。
パティは鼻を利かせながら、周囲の匂いを探っている。犬耳がぴくぴく動いた。
「こっちです!」
彼女が走り出す。俺たちは後を追った。
しばらく進むと、パティが立ち止まった。彼女は茂みの中を指差す。
「あれです!」
茂みの奥に、白い花が咲いていた。小さく、だが確かに光を放っている。希少な薬草だ。
パティは誇らしげに尻尾を揺らした。
「見つけた!」
俺は薬草を手に取った。柔らかくて、冷たい。
(これで……病人が助かる……)
だが、胸の中のもやもやは消えなかった。
(俺は本当に、正しいことをしているのか……?)
◇
村に戻り、薬草を薬草師に渡した。彼は深く頭を下げた。
「ありがとう。明日、温泉の場所を案内しよう」
その夜、俺たちは村の宿で休んだ。窓の外から、森の夜の音が聞こえる。虫の鳴き声と、風が木々を揺らす音。
スヴィーナが俺の隣に座った。
「マックス」
彼女が囁く。
「あなたは優しすぎるのよ」
俺は彼女を見た。
「優しい……?」
「自分を責めすぎてる」
彼女が微笑んだ。
「病人を助けるのは、悪いことじゃないわ」
俺は窓の外を見た。月明かりが森を照らしている。
「でも……俺は温泉を解放するために来たんだ。それなのに……」
「温泉も、病人も、どちらも大切」
スヴィーナが言った。
「あなたはそれを分かってる。だから苦しんでるのよ」
俺は黙った。彼女の言葉が胸に沁みる。
その時、窓の外で何かが動いた。影が横切る。
俺は立ち上がった。
「誰かいる」
窓を開けると、森の奥から低い唸り声が聞こえた。獣の声。だが、普通の獣じゃない。魔物だ。
そして、その唸り声は一つじゃなかった。複数の魔物が、森の奥で蠢いている。




