第五十話 温泉神の真実と究極の選択
沈黙が続いた。湧き出す温泉の音だけが、静かに響いている。
俺は膝をついたまま、消えた温泉神がいた場所を見つめていた。
「真の試練……」
スヴィーナが呟く。その声が震えていた。
パティが俺の肩に手を置いた。
「マックス、大丈夫か?」
「……ああ」
俺は立ち上がった。足に力が入らない。勾玉を握りしめる。冷たい感触が手のひらに沁みる。
「とにかく、今夜はここで休もう」
クラリスが静かに言った。
「明日、社へ向かいましょう。そこで……すべてが分かるはずです」
俺は頷いた。それしかできなかった。
◇
一晩、ほとんど眠れなかった。
焚き火の傍で横になっても、温泉神の言葉が頭の中で繰り返される。
(真の試練は、これからだ……)
(お前が選ばれた本当の理由を……)
約束は何だったんだ。八十八か国すべての温泉を解放すれば、元の世界に帰れる。そう言われたから、俺はここまで戦ってきた。
それが嘘だったのか。いや、嘘ではないのかもしれない。
ただ、それだけじゃなかったということなのか。
焚き火の炎が揺れる。パチパチと爆ぜる音が聞こえる。
「マックス、眠れないの?」
スヴィーナの声がした。振り向くと、彼女が起き上がっていた。
銀髪が月明かりに輝いている。
「……ああ」
「私も」
スヴィーナが俺の隣に座った。膝を抱えて、焚き火を見つめている。
「ねえ、マックス」
「ん?」
「あなたは……元の世界に、帰りたい?」
俺は答えられなかった。
帰りたいと思っていた。ずっと、そう思ってきた。でも今は……。
「分からない」
俺は正直に言った。
「最初は、絶対に帰りたいと思ってた。でも今は……お前たちと離れるのが、怖い」
スヴィーナが息を呑んだ。
「マックス……」
「だから、明日が怖いんだ」
俺は拳を握りしめた。
「温泉神が何を言うのか。どんな選択を迫られるのか。それが……怖い」
スヴィーナが俺の手の上に、自分の手を重ねた。温かい。
「大丈夫」
彼女が囁いた。
「どんな答えでも、私はあなたの選択を尊重するから」
俺は彼女を見た。青い瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。
「ありがとう」
それしか言えなかった。
◇
翌朝、俺たちは温泉神の社へ向かった。
それから四日間、誰も多くを語らず、ただ黙々と歩き続けた。
五日目の朝、ついに社が見えてきた。
石段が続いている。登り切った先に、白い社殿が建っていた。
「着いたな」
パティが呟く。
俺は石段を見上げた。心臓が早鐘を打っている。
勾玉を握りしめる。温かい光が手のひらに広がった。
「行こう」
俺は一歩を踏み出した。石段を登る。一段、また一段。
足音だけが響く。誰も何も言わない。ただ登り続ける。
息が上がってきた。それでも止まらない。
頂上が近づく。社殿の扉が見えた。
俺は扉の前に立った。手を伸ばす。指先が震えている。
扉に触れた瞬間、軋む音が響いた。
扉がゆっくりと開いていく。中から光が溢れてくる。
温泉神が、そこにいた。
「よくぞ来た、マックスよ」
静かな声が響く。
俺は社殿の中に入った。仲間たちも続く。
光の中に、温泉神の姿が浮かび上がる。俺たちは跪いた。
「真実を語る時が来た」
温泉神が告げた。
「マックスよ、お前が選ばれた本当の理由を」
俺は息を詰めた。
「八十八か国の温泉を解放する試練。それは確かに、この世界を救うために必要なことだった」
温泉神の声が、社殿に響く。
「だが、それだけではない」
「……どういう、ことですか」
俺は震える声で尋ねた。
「真の目的は、お前に弱さを認めさせること。仲間を信じる心を育てること」
温泉神が静かに言った。
「そして……次代の温泉神となる資格を得ることだった」
「次代の……温泉神?」
俺は呆然とした。勾玉が、胸元で激しく光を放った。
「私の役目は、もう終わる」
温泉神が告げる。
「この世界には、新たな守護者が必要だ。お前には、二つの選択肢がある」
俺の呼吸が止まった。
「元の世界に帰るか」
「この世界に残り、温泉神の後継者となるか」
沈黙が落ちた。耳鳴りがする。
「元の世界に帰れば……」
俺は呟いた。
「仲間と、離れ離れになる……」
スヴィーナが息を呑む音が聞こえた。
「マックス」
彼女の声が震えている。振り向くと、スヴィーナが涙を流していた。
「あなたの選択を……尊重する」
「スヴィーナ……」
「でも」
パティが声を震わせた。
「あたしは、一緒にいたい」
「パティ……」
クラリスが静かに言った。
「あなたの心に従ってください、マックス」
俺は答えられなかった。喉が詰まる。言葉が出てこない。
「温泉神」
俺はようやく声を絞り出した。
「一晩……考える時間を、ください」
温泉神が静かに頷いた。
「明日の朝、答えを聞こう」
◇
夜になった。俺は社の裏手に来ていた。
一人で、夜空を見上げている。
星が無数に輝いていた。風が吹く。頬を撫でていく。冷たい。
勾玉が胸元で、静かに光っている。
(元の世界に帰る……)
(それとも、ここに残る……)
元の世界で、俺は仲間を守れなかった。
あの時の無力感を、今でも覚えている。
だから強くなりたかった。一人で戦える力が欲しかった。
でも今は……。
スヴィーナの顔が浮かぶ。
パティの笑顔が浮かぶ。
クラリスの静かな微笑みが浮かぶ。
俺は、もう一人じゃない。
風が強くなった。社の鐘が、静かに鳴り響いた。
俺は拳を握りしめた。
答えは……まだ出せない。




