第四十五話 八十五か国目と仲間の決断
俺は廊下を歩き続けた。足音だけが、静寂を刻む。
自分の部屋に戻ると、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。木の節が、じっと俺を見下ろしていた。
(クラリス……)
あの泣き声が、耳から離れない。
温泉神の眷属。監視されていた。試されていた。
そう考えると、すべてが嘘に思えてくる。
でも、一緒に戦った日々も、混浴で語り合った時間も、確かにそこにあった。
(分からない……)
拳を握りしめる。爪が掌に食い込んだ。
朝まで、眠れなかった。
◇
食堂に降りると、スヴィーナとパティとディアナが既に座っていた。
三人とも、無言で朝食を口にしている。クラリスの席だけが、空いていた。
俺は席に着き、パンを手に取った。
噛んでも、味がしない。喉を通らない。無理やり飲み込むと、胃が重く沈んだ。
食器を置く音だけが、響く。カチャ、カチャ、という乾いた音。
スヴィーナは俺と目を合わせようとしない。視線を皿に落としたまま、フォークを動かし続けている。
パティは何度も目元を拭っていた。
ディアナは窓の外を見つめたまま、紅茶のカップを両手で包んでいる。
「……今日、次の国へ向かう。深い原生林に囲まれた国だ」
俺は低い声で言った。
スヴィーナがフォークを置いた。金属音が響く。
「クラリスは?」
冷たい声だった。
「……」
「置いていくの? それとも連れていくの?」
「一緒に行こうよ!」
パティが涙声で言った。
「クラリスも仲間だよ! ずっと一緒に戦ってきたじゃん!」
「信用できない」
スヴィーナがきっぱりと言った。
「温泉神の眷属なんでしょ? 最初から私たちを監視してたんでしょ?」
「それは……」
「違うって言えるの?」
パティが黙り込んだ。
ディアナがカップを置いた。
「彼女を、置いていくのですか?」
「……連れていく」
俺は答えた。
「仲間だから」
スヴィーナが俺を見た。青い瞳が、鋭く俺を射抜く。
「本気?」
「ああ」
「……分かった」
彼女は立ち上がった。
「でも、信じたわけじゃないから」
そう言い残して、部屋を出ていく。
パティとディアナも、無言で席を立った。
俺は一人、食堂に残された。
◇
クラリスの部屋の前に立った。扉に手を当てる。
冷たい木の感触が掌に伝わった。
「出発する」
俺は扉越しに言った。
「一緒に来い」
返事はない。
「……仲間だから」
沈黙が続く。
俺は扉から手を離そうとした。
ガチャ、という音がして、扉が開いた。
クラリスが立っていた。瞳が腫れている。唇が震えていた。
青いローブの裾が、わずかに揺れている。
「……行きましょう」
彼女は小さく言った。
俺は頷いた。
◇
森への道は、長かった。
五人は縦一列で歩いている。俺が先頭、クラリスが最後尾。誰も会話しない。
足音と、風が木々を揺らす音だけが続いた。
一日目の夜、焚火を囲んだ。
クラリスだけが、離れた場所に座っている。炎が揺れるたび、彼女の影が長く伸びた。
まるで、俺たちから引き離されていくように。
「ねえ、一緒に座ろうよ」
パティが声をかけた。
「大丈夫です」
クラリスは答えた。
「……そう」
パティは何度も振り返って、クラリスを見ていた。でも、彼女は動かない。
スヴィーナは最初から背を向けたまま、一度もクラリスを見なかった。
二日目も、三日目も、同じだった。
焚火の匂いが服に染み付く。森の湿った空気が、肌にまとわりついた。
木々の匂いが濃くなる。俺は剣の柄を握りしめ続けた。
五日目、深い原生林の国の入口に着いた。
巨木が立ち並び、木漏れ日が地面に斑模様を描いている。
「この先に温泉があります」
ディアナが言った。
「行くぞ」
俺は歩き出した。クラリスは、一歩遅れてついてきた。
五人の距離は、縮まっていない。
◇
温泉跡地に着いた。
苔むした石が積まれ、枯れた泉が地面に口を開けている。
木の根が石を侵食し、蔦が絡みついていた。
俺は勾玉を取り出した。青い光が、温泉を包む。
地面が震えた。
「来るぞ!」
俺は剣を抜いた。
地面が裂け、巨大な蔦が噴き出した。
ズズズ、という音を立てて、蔦が空へ伸びる。先端に、人の顔のような瘤が浮かんでいた。
「魔物……!」
蔦が、クラリスへ向かって伸びた。
「クラリス!」
俺は叫んだ。
クラリスが杖を構えるより早く、蔦が彼女の身体を絡め取った。
ギチギチ、という音を立てて、蔦が締め上げる。
「うっ……!」
クラリスが呻いた。
スヴィーナとパティが、一瞬動けなかった。
俺は駆け出した。
「お前が何者でも、今は仲間だ!」
剣を振るう。刃が蔦を斬り裂き、緑色の液体が飛び散った。
草の匂いが鼻を突く。
「……ちっ」
スヴィーナが舌打ちして、魔法を放った。炎が蔦を焼く。
パティも短剣を抜いて駆け寄り、クラリスを縛る蔦を斬った。
俺とスヴィーナ、パティで魔物を取り囲んだ。
「一気に畳みかけるぞ!」
俺は叫んだ。
剣を振るい、魔法を放ち、蔦を斬り裂く。
魔物が悲鳴を上げて、光の粒子になって消えた。
俺は枯れた源泉の前に立ち、胸の青い勾玉を握りしめた。
「温泉神よ、この地に眠る泉を、再び解き放て!」
勾玉から青い光が溢れ、封印されていた源泉へと広がっていく。
やがて、温泉から湯気が立ち上った。硫黄の匂いが広がる。
クラリスは地面に座り込んでいた。
「ありがとうございます……」
彼女は涙を流した。
俺は手を差し伸べた。クラリスが、その手を取る。
温かかった。
スヴィーナは無言で背を向けたが、去らなかった。
◇
その夜、温泉に浸かった。
五人が湯に身を沈める。湯気が顔を撫でた。
「お前の秘密は知りたい」
俺は言った。
「でも今は、お前を信じる」
クラリスが俺を見た。
「……本当に?」
「ああ」
「最後の国で、すべてを話します」
彼女は言った。
「それまで待ってください」
「分かった」
スヴィーナが湯に手を沈めた。
「信じるわ」
彼女は言った。
「でも裏切ったら許さない」
「……はい」
「やっぱりみんな仲間だね!」
パティが笑った。
ディアナが微笑む。
「残り三か国です」
俺は空を見上げた。星が、輝いていた。




