第四十四話 八十四か国目と温泉神の使者
廊下の冷たさが、全身を包んだ。
クラリスは膝を抱えたまま、壁に背を預けた。
木の床が腰から熱を奪っていく。
扉の向こうから聞こえる話し声は、いつの間にか途絶えていた。
静寂が、廊下を満たす。
彼女は目を閉じた。涙が、また頬を伝う。
(マックス……ごめんなさい)
クラリスは唇を噛んだ。でも声は出さなかった。
いつしか、意識が遠のいていく。
疲労と、冷たさと、罪悪感が、彼女を眠りへと引きずり込んだ。
◇
夜明け前。俺は部屋を出た。
スヴィーナとパティはまだ眠っている。でも俺は眠れなかった。
クラリスのことが、頭から離れない。
(何を隠してるんだ……)
廊下に出ると、足が止まった。
床に、誰かが座り込んでいる。
金髪が、薄明かりに光っていた。
「クラリス……?」
俺は駆け寄った。彼女は膝を抱えたまま、壁に背を預けて眠っていた。
頬には、涙の跡が残っている。
「おい、クラリス」
肩を揺すると、彼女は小さく呻いた。でも目を覚まさない。
冷たい。手が、氷のように冷たい。
(俺が……あんなことを言ったから……)
胸の奥に苦い後悔と罪悪感が込み上げてくるのを抑えながら、俺は彼女を抱き上げた。
軽い。こんなに軽かったのか。
部屋に戻ると、スヴィーナが目を覚ました。
「マックス……? それ、クラリス?」
「ああ。廊下で眠ってた」
「……なんで」
スヴィーナの猫耳が、ピクリと動いた。
俺はクラリスをベッドに寝かせた。パティも目を覚まし、クラリスの顔を覗き込む。
「すごく冷たい……」
パティが毛布をかけた。三人で、クラリスを囲む。
誰も、何も言わなかった。
窓の外で、鳥が鳴いた。
◇
六日間の旅を経て、俺たちは平原の国に着いた。
見渡す限り、草原が続いている。風が草を撫で、緑の波が揺れる。
空は青く、雲は白い。でも、誰も何も言わなかった。
クラリスは一人で後ろを歩いている。
スヴィーナは彼女を避けるように先頭を歩き、パティは二人の間で困った顔をしている。
俺は、何も言えなかった。
(どうすればいい……)
温泉は、平原の真ん中にあった。石造りの古い社が、ぽつんと立っている。
中に入ると、枯れた温泉があった。
「儀式を始める」
俺が言うと、四人が頷いた。クラリスは、まだ何も言わない。
勾玉を握りしめ、呪文を唱える。光が温泉を包み、魔物が姿を現した。巨大な狼の姿をしている。
戦いは、短かった。
クラリスが弱点を指示し、俺は剣を抜いて斬りかかった。魔物は悲鳴を上げて消えた。
俺は胸の青い勾玉を握りしめ、枯れた源泉の前に立った。
「温泉神よ、この地に眠る泉を、再び解き放て!」
勾玉から青い光が溢れ、封印されていた源泉へと広がっていく。
やがて、温泉が湯気を上げ始めた。
(八十四か国目……)
残り、四か国。
そのとき。温泉から、光が立ち上った。
「なんだ!?」
俺は剣を構えた。でも、光は攻撃してこない。
光が人の形を取る。白い衣をまとった、人影。
顔は光に包まれて見えないが、威厳のある声が響いた。
「マックスよ」
その声に、俺の勾玉が光った。
「お前は、よくやった」
「あなたは……」
「我は温泉神の使者。お前に告げに来た」
使者が、俺を見つめる。
「試練の終わりが近い。残り四か国だ」
四人が、息を呑んだ。
「あと四か国……」
俺が呟くと、使者は頷いた。
「そうだ。だが、マックスよ。最後の試練は容易ではない」
「試練……?」
そのとき。使者が、視線を動かした。クラリスを、見つめる。
「温泉神の眷属よ」
クラリスの顔から、血の気が引いた。
「時は来た。お前の役目を果たせ」
「眷属……!?」
スヴィーナが叫んだ。猫耳が、完全に逆立っている。
「クラリス、あんた……!」
「待ってください」
パティが二人の間に立って、手を広げた。
「どういうことですか!?」
俺は剣の柄を握りしめた。
「クラリス、お前は温泉神の眷属だったのか!?」
クラリスは答えなかった。ただ、涙を流している。
「まだ……話せません」
「なんで!?」
スヴィーナが叫んだ。
「ずっと、私たちを騙してたの!?」
「違います……」
「じゃあ何!?」
使者が、手を上げた。
「最後の国で、すべてが明らかになる」
光が、強くなる。
「そのときまで、待て」
使者の姿が、光の粒子になって消えた。
残された俺たちの間に、重い沈黙が流れた。
◇
宿に戻っても、誰も何も言わなかった。
クラリスは一人で部屋に閉じこもり、俺たちは別室に集まった。
「信じられない……」
スヴィーナがテーブルを叩いた。ガンッ、という音が部屋に響く。
「温泉神の眷属だって? つまり、私たちを監視してたってこと?」
「分からない」
俺は頭を抱えた。
「でも、あの使者はクラリスを『眷属』って呼んだ」
「じゃあ、やっぱり……」
「でも!」
パティが涙を流した。
「クラリスは仲間だよ! ずっと一緒に戦ってきたじゃん!」
「それが演技だったら?」
スヴィーナが言った。
「最初から、私たちを試すために近づいてきたとしたら?」
「そんな……」
ディアナが窓の外を見つめた。
「彼女を、信じるべきです」
「信じろって言われても……」
俺は立ち上がった。
「少し、考えさせてくれ」
部屋を出る。廊下は、静かだった。
クラリスの部屋の前に立つ。
扉の向こうから、すすり泣く声が聞こえた。
俺は拳を握りしめた。
(クラリス……)
でも、扉を叩けなかった。俺は拳を震わせたまま、立ち尽くした。
すすり泣く声が、続いている。
俺は、立ち去った。




