第四十三話 八十三か国目と仲間への疑念
俺は宿に戻り、寝床に横たわった。でも、眠れなかった。
クラリスの涙が、脳裏に焼き付いている。
「ごめんなさい」
彼女は何を謝ろうとしたんだ?
そして、何を隠している?
(考えても、答えは出ない……)
俺は寝返りを打つ。隣の寝床では、スヴィーナが寝息を立てていた。パティも、ディアナも、穏やかな顔で眠っている。
でも、クラリスの寝床だけは。まだ、空のままだった。
◇
翌朝。俺たちは山岳地帯の国を発った。次の目的地は、湖畔の国。八十三か国目だ。残りは、あと六つ。
「マックス、大丈夫?」
スヴィーナが心配そうに俺を見上げる。
「ああ。平気だ」
「眠れてなかったでしょ? 目の下に隈ができてるにゃ」
「……少し、考え事をしてただけだ」
スヴィーナは俺の顔をじっと見つめてから、小さく頷いた。
「クラリスのこと?」
「……ああ」
「わたしも、気になってる」
スヴィーナが前を歩くクラリスの背中を見た。彼女はいつもと変わらない様子で、杖を突きながら歩いている。
「前から、おかしかったにゃ。魔物のこと、知りすぎてる」
「そうだな……」
俺も、同じことを考えていた。
クラリスは温泉魔物の弱点を、いつも的確に指示してくる。まるで、最初から知っていたかのように。
でも、どうして?
古文書で学んだだけで、あんなに詳しくなれるものなのか?
(いや、そもそも……)
クラリスは、いつも温泉神のことを口にするとき、一瞬だけ表情が曇る。まるで、何かを思い出しているように。
◇
八日間の旅を経て、俺たちは湖畔の国に着いた。
夕暮れ時。湖面が、赤銅色に染まっていた。
水の匂いが濃い。魚の匂いと、少し冷たい風が混じっている。
「綺麗……」
ディアナが感嘆の声を上げた。
「でも、温泉はどこ?」
パティが首を傾げる。
「あそこです」
クラリスが湖の奥を指差した。
湖畔に、小さな社が見える。その周りに、白い湯気が立ち上っていた。
「あれが、封印された温泉……」
俺が呟くと、クラリスは頷いた。
でも、彼女の表情は。どこか、遠くを見ているようだった。
「クラリス?」
俺が声をかけても、彼女は答えない。ただ、湖を見つめたまま、動かなかった。
スヴィーナの猫耳が、警戒で伏せる。
「……ねえ、クラリス」
「はい?」
ようやく、彼女が振り返った。
「大丈夫? なんか、ぼーっとしてたけど」
「大丈夫です。少し、疲れていただけですから」
クラリスは微笑んだ。でも、その笑顔は。どこか、無理をしているように見えた。
◇
翌朝。俺たちは湖畔の温泉に向かった。社の前に立つと、勾玉が青く光り始める。
「行くぞ」
俺が勾玉を掲げると、社の扉がゆっくりと開いた。
中から、黒い霧が溢れ出す。そして、温泉魔物が姿を現した。巨大な触手を持つ、タコのような魔物だ。
触手が地面を叩くたび、ドンッという振動が足元に伝わる。
「マックス、気をつけて!」
スヴィーナが叫ぶ。俺は剣を構えた。
でも、その時。
「マックス、左の触手を狙ってください。核があります」
クラリスの声が、背後から聞こえた。
(左の触手……?)
俺は言われた通り、左の触手に斬りかかった。剣が触手を切り裂くと、中から光る核が露出する。
「今です!」
俺は核に剣を突き立てた。魔物が、悲鳴を上げる。そして、黒い霧となって消えていった。
俺は温泉の前に立ち、胸の青い勾玉を握りしめた。
「温泉神よ、この地に眠る泉を、再び解き放て!」
勾玉から青い光が溢れ、封印されていた源泉へと広がっていく。
硫黄の匂いが鼻を突く。温泉から、透明な湯が湧き出し始めた。
「やった!」
パティが歓声を上げる。湖畔の国の民が、社の周りに集まってきて喜びの声を上げた。
でも、俺は。喜べなかった。
(信じて待つと決めたはずなのに……)
(それでも、あまりにも不自然だ。クラリスは、どうしてここまで魔物のことを知っているんだ?)
信じたい気持ちと、疑いを拭えない気持ちが、胸の中で深くぶつかり合っていた。
◇
宿に戻ってから、俺はクラリスを呼び止めた。
「クラリス。話がある」
「……何でしょうか?」
彼女の緑の瞳が、俺を見つめる。スヴィーナとパティも、黙って俺たちを見ていた。
「お前、魔物のことを知りすぎている。どうしてだ?」
俺が問い詰めると、クラリスは視線を床に落とした。
「古文書で学んだだけです」
「それだけで、あんなに的確に弱点が分かるのか?」
「……はい」
「嘘だ」
俺は剣の柄を握りしめた。
「前から気になってた。あなた、何か隠してる」
スヴィーナが言った。猫耳が、逆立っている。
「私は……」
クラリスが口ごもる。
「何を隠してるの? 教えてよ」
パティが二人の間に立って、手を広げた。
「みんな、仲間でしょ?」
「仲間なら、隠し事はするな」
俺が言うと、クラリスは顔を上げた。その瞳に、涙が浮かんでいた。
「……今は、話せません」
「なんで?」
「話せないんです。まだ……」
クラリスは背を向けた。
「ごめんなさい」
彼女は部屋を出て行った。扉が、バタンと閉まる。
残された俺たちの間に、重い沈黙が流れた。
◇
深夜。クラリスは一人で、湖畔を歩いていた。
月明かりが湖面を照らし、波の音だけが聞こえる。
彼女は湖面に映る自分の顔を見つめた。月と、自分の顔が、揺れる波紋に歪む。
「もうすぐ、すべてを話さなければならない……」
クラリスは呟いた。涙が、頬を伝う。
彼女は手で涙を拭った。湖水が足元を舐め、冷たさが骨まで沁みる。
「マックス……ごめんなさい」
クラリスは宿に戻った。でも、部屋の前で立ち止まる。
扉の向こうから、マックスたちの話し声が聞こえた。内容は聞き取れない。でも、きっと。自分のことを話しているんだろう。
クラリスは扉を開けなかった。
廊下の木の床に座り込み、膝を抱える。
冷たさが、全身を包んだ。




