第四十二話 八十二か国目の温泉と最後の試練への予感
八十一か国目の温泉を解放した翌朝。
宿の部屋で荷物をまとめていると、スヴィーナが窓辺に駆け寄った。
「マックス、見てにゃ! 良い天気だよ!」
彼女の猫耳がぴょこんと立つ。尻尾も嬉しそうに揺れている。
「今日も頑張ろうね!」
パティも荷物を背負いながら、元気に尻尾を振った。
「あたしたち、もう八十一か国も解放したんだもんね!」
「ああ。残り七か国だ」
俺は剣を腰に下げる。青い勾玉が、胸元で小さく光った。
部屋の隅で、クラリスが荷物を背負っている。彼女の手が、紐を結ぶとき震えていた。ほんの一瞬。でも、確かに。
(クラリス……)
俺は視線を逸らした。あえて、何も言わない。今は、信じて待つと決めたから。
「じゃあ、行こうか」
四人が頷く。俺たちは宿を出て、山岳地帯へと向かった。
◇
三日後の夕暮れ。険しい山道を登り続けて、足が重くなってきた。
岩に手をかけるたび、ざらついた感触が掌に残る。汗が背中を伝い、旅装束が肌に張り付いた。
「はぁ……はぁ……もうちょっとにゃ……」
スヴィーナが息を切らしながら岩を登る。
パティも額の汗を拭いながら、後ろを振り返った。
「マックス、大丈夫?」
「ああ、平気だ」
クラリスは無言で、杖を支えに山道を進んでいる。彼女の表情は見えない。金髪が風に揺れて、顔を隠していた。
やがて、峠の頂に辿り着く。
「着いたにゃ!」
スヴィーナが岩の上に立ち、前方を指差した。
「あれ……温泉だ!」
眼下に、谷間が広がっている。白い湯気が、夕日に染まって金色に輝いていた。
でも、その中心に。巨大な岩石の塊が、温泉を覆っている。
ゴゴゴゴゴ……低い音が谷に反響した。魔物の咆哮。
岩石が動き、温泉の湯が飛び散る。
村人たちが荷物を抱えて逃げていく。土埃が舞い上がり、焦げた匂いが風に乗って届いた。
「急ぐぞ!」
俺は駆け出した。四人も後に続く。
岩場を飛び降り、谷へと滑り込む。足音が地面を叩き、息が荒くなる。
温泉の前に到着した時、村人は全員避難していた。残っているのは、俺たちと魔物だけ。
岩石型の魔物が、ゆっくりと振り向いた。
ゴゴゴゴゴ……地響きとともに、巨大な腕が持ち上がる。
「いつも通り、頼む」
俺は剣の柄に手を添えながら、仲間たちに声をかけた。スヴィーナ、パティ、クラリスが頷く。ディアナは避難した村人たちの安全を確認し、俺たちの背後を警戒してくれている。
「任せてにゃ!」
「あたしたちに任せて!」
「魔物を源泉から引き離してください! マックスが儀式に集中できるように!」
クラリスが杖を構えた。その目に、迷いはない。
俺は温泉の前に立ち、勾玉を握りしめる。
「温泉神よ、この地に眠る泉を……」
詠唱を始めた。背後で、魔物が咆哮する。
ドガァン!
岩が投げつけられた音。でも、振り返らない。
「解き放て!」
スヴィーナの声が響く。風を切る音。彼女が素早く回避したのが分かる。
「こっちだよ、でっかい石ころ!」
パティの囮。魔物の腕が地面を叩く音が、遠ざかっていく。
クラリスの魔法の光が、視界の端で瞬いた。三人の連携が、完璧に噛み合っている。
俺は詠唱を続けた。仲間を、信じて。
「封印を解き、命の湯を蘇らせたまえ!」
勾玉が、強く光った。地面が震える。温泉の底から、熱い湯が噴き出した。
ゴボゴボゴボ……白い湯気が立ち上り、魔物の身体を包む。
ギャアアアアア!
魔物が悲鳴を上げて、光とともに消えた。岩石が崩れ、温泉に沈んでいく。
そして、静寂。
「やったにゃ!」
スヴィーナが駆け寄ってきた。パティも笑顔で手を振る。
「マックス、無事?」
「ああ。お前たちこそ」
クラリスが杖を下ろし、こちらを見た。息を切らしているが、怪我はない。
「ありがとう」
俺は笑顔で告げた。
「みんなのおかげだ」
四人が、笑った。
温泉の湯が、静かに湧き続けている。夕日が谷を照らし、湯気が金色に輝いていた。
◇
その夜。復活した温泉に、五人で浸かった。
村人たちは感謝の宴を開いてくれたが、俺たちは静かな温泉を選んだ。湯の温かさが、疲れた身体に染み渡る。
「ふぅ……生き返るにゃ……」
スヴィーナが湯に身を沈めた。パティも目を閉じて、リラックスしている。
「残り六か国だね」
「ああ。もうすぐだ」
俺は夜空を見上げた。星が、瞬いている。
「マックス、元の世界に帰りたい?」
スヴィーナが、静かに尋ねた。
「……分からない」
正直に答えた。
「最初は、帰りたいと思ってた。でも今は……」
お前たちと、ずっと一緒にいたい。そう思っている自分がいる。
「わたしは、マックスと一緒にいたいにゃ」
スヴィーナが笑った。
「あたしも!」
パティが元気に手を上げる。
でも、クラリスは。
湯の表面を見つめたまま、何も言わなかった。
「クラリス?」
俺が声をかけても、彼女は答えない。ただ、緑の瞳が揺れていた。まるで、何かを堪えているように。
(やっぱり、何か隠してる……)
でも、今は聞けない。
俺たちはしばらく、無言で湯に浸かっていた。
◇
深夜。また、物音で目が覚めた。
クラリスの寝床が、空だった。
(また……?)
俺は服を着て、外に出る。
温泉の縁に、人影が見えた。クラリスだ。
彼女は湯に手を浸し、じっと見つめていた。月明かりが、湯面に映っている。
「クラリス」
俺が近づくと、彼女は顔を上げた。頬に、光るものが伝っていた。涙。
「マックス……」
彼女の声が、震えている。
「どうした? 泣いて……」
「……ごめんなさい」
クラリスが俯いた。金髪が、顔を隠す。
「私は……あなたを……」
「クラリス?」
「何でもありません」
彼女が立ち上がった。涙を拭い、いつもの冷静な表情に戻る。でも、その目は。まだ、悲しみを湛えていた。
「もう休みましょう。明日も、旅が続きますから」
クラリスが俺の横を通り過ぎる。その背中を、俺は黙って見送った。
夜風が吹いて、温泉の湯気を揺らす。
そして、俺の胸に。確信が、芽生えた。
クラリスは、何か大きな秘密を抱えている。そして、それは。
この旅の終わりと、関係している。




