第三十六話 意識朦朧の告白と過去の傷
治療師が到着したのは、それから一刻ほど経ってからだった。
白髪の老人が、ディアナに導かれて大温泉の傍らに現れた。黒い外套を纏い、革の鞄を抱えている。足取りは重く、息を切らせていた。
「こちらです、先生!」
ディアナの声が、朝の冷たい空気を大きく震わせる。
老人はマックスの傍らにすぐ膝をついた。鮮血に染まった旅装束を見て、深く顔をしかめる。
「……ひどい傷だ」
震える手で、マックスの首筋に指を当てる。脈を確かめる動作が、妙に長い。
スヴィーナは息を止めていた。猫耳が悲痛に震えている。
「脈は……ある。だが非常に弱い」
老人が鞄から清潔な包帯と薬草を大急ぎで取り出した。
クラリスが即座に立ち上がる。
「私が手伝います」
「魔法使いか。ならば頼む」
二人がかりで、マックスの凄惨な傷を手当てした。血を慎重に拭い、薬草を塗り込み、包帯をきつく巻く。クラリスの治癒魔法が美しく温かな緑の光となって傷口を包み込むが、それでも血は完全には止まらない。
パティは、マックスの冷たい手を両手で強く握りしめたまま動けなかった。
「……マックス」
声が、激しく震えている。
老人がゆっくりと立ち上がった。額の汗を袖で拭う。
「王宮の医療室へ運びます。ここではこれ以上の手当てができません」
ディアナが控えていた兵士たちにすぐさま合図した。丈夫な担架が運ばれてくる。
マックスの体が、慎重に持ち上げられた。
スヴィーナも、マックスの手を離したくなかった。でも、担架に乗せるために愛おしそうに指を離す。
冷たい。まだ、あまりにも冷たかった。
◇
王宮の医療室は、白い石壁に囲まれた静かな部屋だった。
高窓からは朝日が優しく差し込み、埃が光の中で静かに舞っている。薬草の独特な匂いが、部屋を満たしていた。
マックスは、柔らかいベッドに静かに横たえられた。
老人が再び本格的な診察を始める。傷の深さを確かめ、脈を測り、呼吸の音を聞く。
四人娘は、固唾をのんで廊下で待っていた。
スヴィーナは壁に背を預けて膝を抱えている。猫耳が力なく垂れていた。パティは扉を何度も必死に見つめた。中から微かな音が聞こえるたび、肩が大きく跳ねる。クラリスは窓の外を見つめたまま、微動だにしない。
ディアナが焦燥を滲ませて廊下を行き来していた。兵士に指示を出し、薬草を運ばせ、温湯を用意させる。
それでも、時間は果てしなく遅く流れた。
やがて、静かに扉が開いた。老人が出てくる。その顔には深い疲労が刻まれていた。
「……命は、取り留めました」
スヴィーナが弾かれたように立ち上がった。
「本当に!?」
「ええ。傷は深いですが、致命傷ではありません」
老人は、しかし表情を重く曇らせた。
「ですが……意識が戻るかは、本人次第です」
「どういうこと!?」
パティが食い気味に訊いた。
「体は回復に向かっています。しかし、彼の意識は……まだ、深い深い闇の中にいる」
老人は、静かに首を振った。
「私たちができることは、ただ待つことだけです。彼自身が、自分でこちら側へ戻ってくるのを」
廊下が、重く静まり返った。
クラリスがそっと目を閉じる。
「……そう、ですか」
◇
二日が経った。
マックスは、深い眠りに就いたままだった。浅い呼吸だけが、かろうじて生きている証だった。
彼女たちは交代で看病した。昼はスヴィーナとパティが、夜はクラリスを中心に交代で、それぞれマックスの傍らに静かに座った。ディアナは王宮の公務があるため、合間を縫って何度も顔を出してくれた。
スヴィーナは、マックスの手を優しく握り続けた。冷たかった手が、少しずつ少しずつ温かくなっていく。でも、一向に目は開かない。
パティは、本を読んで聞かせた。
「……それで、勇者は魔物を倒したんだって。みんなで力を合わせて」
マックスは答えない。
「ねえ、マックス。あたしたちも、みんなで力を合わせたかったよ……」
ポロポロと涙が、本の上に落ちた。
クラリスは、窓の外を見つめていた。星が、夜空で静かに瞬いている。
(マックス……あなたは、この試練を乗り越えられるのですか)
胸の奥が、締め付けられるように痛んだ。
◇
三日目の夜だった。
スヴィーナが当番で、マックスの傍らに座っていた。本を開いているが、文字はまったく頭に入ってこない。マックスの呼吸が、いつもと同じリズムで続いている。
スヴィーナは、そっとページをめくった。
その時。
マックスの指が、ピクリと動いた。
「……マックス!?」
スヴィーナがハッと顔を近づける。マックスの額に、じんわりと冷や汗が浮かんでいた。
「すまない……」
低い、苦しげな声が漏れた。
「守れなかった……」
スヴィーナは息を呑んだ。
「マックス、聞こえてる!?」
だが、マックスは答えなかった。うなされるように、必死に首を振る。
「俺のせいで……死んだんだ……」
大粒の涙が、マックスの青ざめた頬を伝った。
スヴィーナは本を放り出して、廊下へ夢中で駆け出した。
「パティ! クラリス!」
足音が、静かな廊下に激しく響く。
パティが寝間着のまま勢いよく飛び出してきた。クラリスも、ローブを慌ただしく纏って扉を開ける。
三人が医療室に駆け込んだ。
マックスは、まだ激しくうなされていた。
「すまない……仲間を……!」
声が、苦しく震えている。
スヴィーナがマックスの手を力強く握った。
「マックス、大丈夫よ! 私たちがいるから!」
だが、マックスの苦しげな言葉は止まらなかった。
「仲間を信じて……一緒に戦った……!」
涙が、枕をどんどん濡らしていく。
「でも俺が弱くて……みんな死んだんだ……!」
パティが唇を強く噛んだ。溢れ出る涙を必死にこらえる。
「だから今度は……一人で……」
マックスの声が、かすれて吐き出される。
「お前たちを……失いたくない……!」
涙が、止まらない。
スヴィーナは、マックスの手を両手で包み込んだ。
「……そんな……」
猫耳が、悲痛に激しく震えている。
「そんな理由で……一人で戦ってたの……?」
マックスは答えなかった。呼吸が、再び浅く静かなものに戻っていく。意識が、また深い闇の中へ遠のいていく。
三人は、重い沈黙の中でマックスを見つめた。
スヴィーナの涙が、ポロポロとマックスの手に落ちる。
「……あなたは一人じゃない」
声が、愛おしそうに震えていた。
「私たちがいる。ずっと、そばにいるから……!」
パティが、マックスの手を両手で力強く包み込んだ。
「今度は……今度はあたしたちが、マックスを守る!」
涙が、頬を伝う。
「だから……もう一人で戦わないで……!」
クラリスは、高窓の外の満天の星空を見上げた。
「……過去を乗り越える時が、来たのです」
静かで、揺るぎない声が部屋に優しく響く。
「マックス。あなたは、もう一人ではありません」
夜が、静かに明けていく。
窓の外の空が、少しずつ綺麗な白に染まっていった。
三人は、マックスの傍らで静かに夜を明かした。
それぞれの温かな想いを胸に。マックスが目を覚ます、その運命の瞬間まで。




