第三十五話 単独決戦と重傷の代償
誰も答えなかった。スヴィーナが立ち上がろうとして、ガクリと膝が崩れた。
「……っ!」
パティが床を拳で強く叩く。鈍い音が会議室に虚しく響いた。
クラリスは窓の外をじっと見つめていた。視線の先、王宮の裏門へ続く道に、マックスの背中が見える。早足で、誰にも見つからないように歩いていた。
「追いかけましょう!」
スヴィーナが震える声で言った。猫耳が力なく垂れている。
「今は、無理です」
クラリスが静かに答えた。
「どうして!?」
「彼は今、私たちの声を聞く状態ではありません」
「じゃあ、どうすればいいのよ!」
パティが叫んだ。涙がボロボロと頬を伝っている。
「あたしたち、何もできないの!? このまま見てるだけ!?」
クラリスは答えなかった。ただ、窓の外を見つめ続ける。
マックスの背中が、裏門の向こうへ消えていった。
ディアナが羊皮紙を握りしめたまま、立ち上がった。
「……私は、治療師を待機させておきます」
「ディアナ様……」
「最悪の事態に、備えなければなりません」
ディアナの声が、激しく震えていた。
スヴィーナは床に座り込んだまま動けなかった。パティは拳を強く握りしめ、爪が掌に深く食い込んでいる。クラリスだけが窓際に立ち、差し込む朝日に悲しげに目を細めていた。
会議室の扉が開く音がして、ディアナが出て行った。足音が遠ざかる。
残された三人は、ただ言葉を失っていた。
◇
大温泉の前に立ったとき、マックスは胸の勾玉を握りしめた。
黒い湯気がどす黒く立ち込めている。魔物の異様な気配が濃く、周囲の空気が重く澱んでいた。
(……やるしかない)
マックスは勾玉を首から外した。青い光が、朝日の中で鈍く輝く。
「温泉神よ……」
マックスが低く呟いた。
「俺に、力を貸してくれ……!」
勾玉を左手で握り、右手の親指を強く咬み切った。鮮血が滲み出る。その血を、勾玉へと滴らせた。
一滴、二滴、三滴。
勾玉が、禍々しくも神々しい赤に染まっていく。
そして――カッと光が爆ぜた。
マックスの全身体が、絶大な光に包まれる。全身体の骨が軋む音がした。筋肉が激痛に悲鳴を上げる。心臓が早鐘のように爆ぜ、全身の血管が黒く浮き上がった。
(これが……命を削る、力……!)
体が熱い。細胞ひとつひとつが焼けるように熱い。
だが、恐ろしいほどの力が満ちてくる。今までにない強大な魔力が、全身を激しく駆け巡る。
黒い湯気の中から、魔物が現れた。巨大な影。異様な姿をした、温泉を汚す呪いの化身。
「……来い!」
マックスが鋭く構えた。赤く染まった勾玉を握りしめたまま、魔物に向かって地を蹴る。
魔物の鋭い爪が叩き下ろされた。マックスは横に飛び、爪を間一髪でかわす。地面に深い爪痕が刻まれ、土石が爆ぜ飛んだ。
マックスは魔物の懐へ飛び込み、全魔力を込めた拳を叩き込んだ。
ドォンッ!と光が爆ぜる。魔物が激しく吹き飛び、地面を転がった。
(効いている……!)
だが、魔物はすぐに咆哮を上げて立ち上がる。周囲の木々が激しく揺れた。
再び凶悪な爪が襲いかかる。今度は避けきれなかった。爪がマックスの肩を深く切り裂く。
「ぐっ……!」
鮮血が飛び散った。肩から腕にかけて、激痛が走る。
だが、マックスは止まらなかった。痛みを完全に無視して、もう一度渾身の拳を叩き込む。
魔物の胸に、聖光が炸裂した。
絶叫と共に魔物が崩れ落ちていく。黒い霧が瞬く間に晴れていった。
大温泉の封印が、音を立てて砕け散る。
清らかで豊かな湯が、地面からドッと湧き出してきた。硫黄の温かな匂いが広がり、白い湯気が立ち昇る。
マックスはその場に膝をついた。
(……やった……)
視界が大きく揺れる。肩の深い傷から血が止まらない。体が鉛のように重い。骨が軋む音が、まだ耳の奥で聞こえている。
勾玉の赤い光が、スーッと消えていく。
代償が、一気に押し寄せてきた。
マックスは口から大量の血を吐いた。喉の奥から、濃い鉄の味がする。
(……これで、いい)
体がバタリと倒れた。冷たい地面が顔に迫ってくる。
視界が、真っ白に染まっていった。
◇
「マックス!」
スヴィーナの痛切な叫び声が、大温泉に響き渡った。
四人娘は必死で走っていた。マックスの気配が急激に消えたことに気づいて、慌てて王宮を飛び出したのだ。
大温泉に着いたとき、彼女たちは息を呑んだ。
封印が解けている。豊かな湯が湧き出し、白い湯気が神々しく立ち昇っていた。
そして――その傍らに、マックスが倒れていた。全身血まみれになって。
「マックス!」
スヴィーナが真っ先に駆け寄った。膝をついて、マックスの青ざめた顔に震える手を触れる。冷たかった。
「なんで……なんで一人で……!」
声が激しく震えていた。大粒の涙が、マックスの頬に落ちる。
パティが全身を震わせながらマックスを力強く抱き起こした。その両手が、温かい血で赤く染まっていく。
「マックス、しっかりして! 目を開けてよ!」
だが、マックスは答えなかった。浅く途切れ途切れの呼吸だけが、かろうじて生きている証だった。
クラリスが膝をつき、必死に治癒魔法を唱えた。美しい緑の光がマックスの体を包み込む。だが、傷が深すぎた。命を削った代償はあ
「……だめ、です……」
クラリスの声が、絶望に震えていた。
「傷が深すぎます……私の魔法では……!」
「そんな……!」
パティが泣き崩れた。
ディアナが弾かれたように走り去る。足音が遠ざかる。
「治療師を呼びます! 待っていてください!」
大温泉の豊かな湯が、静かに湧き続けている。白い湯気が、朝日の光の中でキラキラと輝いていた。
マックスの今にも消えそうな浅い呼吸だけが、静寂の中に聞こえる。
スヴィーナは、マックスの冷たい手をギュッと強く握りしめた。
「……お願い、死なないで……!」
猫耳が悲痛に震えている。涙が止まらない。
「あたし、まだ何も言えてないの……! ごめんなさいも、ありがとうも……!」
パティが、マックスの汗ばんだ額にそっと手を当てた。
「あたしも……あたしも、マックスに伝えたいことがあるの!」
クラリスは涙を流しながら、必死に治癒魔法を唱え続けた。効果が薄くても、止めるわけにはいかなかった。
温泉国の民が、大温泉の復活に気づき始めている。歓喜の歓声が、遠くから波のように聞こえてきた。
だが、四人娘にはその歓声など何ひとつ届かなかった。
ただ、愛するマックスの消えそうな呼吸だけを、涙で見つめていた。




