第三十三話 単独行動と隠された準備
部屋に戻ってから、俺は一睡もしていなかった。
窓の外で月が沈み、やがて東の空が白み始める。鳥の鳴き声が遠くから聞こえてきた。朝の冷たい空気に、開けた窓から冷気が流れ込んでくる。
俺は勾玉を首から外し、手のひらで静かに転がした。青い光が、かすかに明滅している。
(これで、いいんだ)
自分に言い聞かせる。何度も、何度も。
(仲間を危険にさらすわけにはいかない)
立ち上がり、旅支度を整える。剣を腰に帯び、水筒に水を満たした。鞄に干し肉と乾パンを詰め込む。
部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。誰もいない部屋。整えられたベッド。窓から差し込む朝日が、床に長い影を落としていた。
(……さよなら)
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
◇
石畳の道を歩く。まだ人通りは少ない。商人が店の準備をしている音が、遠くからガラガラと聞こえてくる。焼きたてのパンの甘い匂いが漂ってきた。
俺は背後を振り返る。誰もいない。もう一度しっかり確認する。やはり誰もいない。
(尾行されていないな……)
安堵と、妙な寂しさが胸の中で入り混じった。
古文書館は王都の北側にあった。石造りの重厚な建物で、壁には青々とした蔦が這っている。入口の扉は分厚い樫の木でできていて、真鍮の取っ手が朝日をキラリと反射していた。
扉を押すと、重い音を立てて開く。
中は薄暗く、埃の匂いと古い紙の匂いが混ざり合っていた。
受付には老いた司書が座っている。白髪の男で、丸眼鏡をかけていた。俺を見上げ、眉をひそめる。
「こんな朝早くから、何の用かね」
低い、しわがれた声だった。
「強力な魔物を倒す方法を探している」
俺は真っ直ぐに言った。
「温泉国の大温泉を封じている魔物だ」
司書の顔が途端に曇る。眼鏡の奥の目が、俺を値踏みするように見つめてきた。
「……禁書庫の資料が必要だな」
「見せてもらえるか」
「本来なら王族か高位の魔法使いしか入れん」
司書は腕を組んだ。
「だが、お前さんがマックス殿なら話は別だ。ディアナ様から、協力するよう仰せつかっている」
(ディアナが……)
胸がキュッと締め付けられる。だが、俺は表情を変えなかった。
「ありがたい」
司書は立ち上がり、奥へと歩き出す。俺はその後に続いた。
廊下は長く、高窓から差し込む光が床に美しい縞模様を描いている。二人分の足音だけが、静かに響いていた。
やがて、重厚な鉄の扉の前で司書が立ち止まった。鍵束を取り出し、堅牢な錠を開ける。
ガチャリ、という重い金属音が廊下に響いた。
「中は自由に見てよい。ただし、持ち出しは厳禁だ」
「分かった」
扉が開く。暗闇の向こうに、びっしりと並んだ巨大な本棚が見えた。俺は一歩、中へ踏み込む。埃が舞い上がり、鼻をくすぐった。
背後で重い扉が閉まる音がした。
◇
三日間、俺は禁書庫に通い詰めた。
朝から夕方まで、古い書物をひたすら読み漁る。魔物に関する記述、封印の術式、魔物に関する記述、封印の術式、強力な魔力を得るための儀式……。ページをめくるたび、指先が黒く汚れていく。
宿に戻るのは夜遅くで、四人娘とは一度も顔を合わせなかった。
部屋に入り込む直前、廊下で誰かの気配を感じることもあったが、振り返ると誰もいない。
(気のせいか……)
そう思うことにした。
三日目の午後、俺はついに探していたものを見つけた。
本棚の最奥、厚い埃をかぶった革装丁の書物。表紙には何も書かれていない。重く、ずっしりとした手応えがあった。
ページを開く。羊皮紙は黄ばみ、ところどころ破れかけている。文字は古い難解な言語で書かれていたが、温泉神の勾玉が頭の中で翻訳してくれた。
そして、俺はついにそれを見つけた。
不気味な赤い文字で書かれた一節。まるで生き血で書いたかのように見える。
『命を代償にする強化儀式』
俺の手が、激しく震えた。
儀式の内容が、次々と頭に流れ込んでくる。
術者の生命力を極限まで魔力に変換し、一時的に圧倒的な力を得る。ただし、術者の命は深刻な危険にさらされる。失敗すれば即座に死ぬ。成功しても、命の一部を削り取られることになる。
(これなら……!)
息が激しく荒くなる。
(これなら、俺一人でもあの魔物を倒せる……!)
必死にページをめくり、儀式の手順を読む。必要な触媒、詠唱の言葉、魔法陣の描き方。すべてが詳細に記されていた。
窓の外では、夕日が沈み始めている。オレンジ色の光が、薄暗い室内に差し込んできた。
俺は書物を閉じ、胸に固く抱える。革の冷たい感触が、腕に伝わってきた。
(仲間を失うよりは、100倍マシだ)
勾玉を強く握りしめる。青い光が、指の間から溢れ出した。
(これが、俺の答えだ)
◇
古文書館を出ると、空はすでに暗くなりかけていた。
石段を降り、通りへ出る。人通りはまばらで、商店の明かりが薄暗い道を照らしている。
俺は足早に宿へ向かった。背後を振り返ることはしなかった。
だが、物陰にひっそりと隠れた小さな影には、気づかなかった。
美しい銀色の髪が、夕闇の中で揺れている。猫耳が、俺の遠ざかる足音を必死に追っていた。
スヴィーナは息を潜め、マックスが去るのを静かに待った。心臓が激しく鐘のように鳴っている。
三日間、彼女はマックスを必死で尾行し続けていた。
朝早く宿を出るマックスの後を密かに追い、古文書館へ向かうのを見届ける。そして彼が出てくるまで、ずっと物陰で待っていたのだ。
(マックスは、一体何を探しているの……?)
大きな不安が胸を激しく締め付ける。マックスは何も話してくれない。一人で抱え込んで、一人で傷つきながら戦おうとしている。
(それが、怖いにゃ……)
マックスの背中が通りの向こうへ完全に消えた。
スヴィーナは物陰から滑り出て、古文書館の重い扉へ近づく。扉を押すと、鍵はかかっていなかった。
中へ忍び込み、足音を消して奥へ進む。受付に司書はいない。もう帰ったのだろう。廊下は暗く、窓から入る青い月明かりだけが頼りだった。
禁書庫の扉は、わずかに開いていた。
(ここ……)
スヴィーナはそっと扉を押し、中へ入る。むっとする埃の匂いが鼻をついた。
本棚の間をぬって進み、マックスが座っていた机へたどり着く。机の上には、先ほどまで彼が開いていた革装丁の書物が置かれていた。
(これを、読んでいたんだ……)
手を伸ばし、書物をそっと開く。
そして、血のような赤い文字を見た瞬間、スヴィーナの顔から一瞬で血の気が引いた。
『命を代償にする強化儀式』
(……嘘……)
ページをめくる手が激しく震える。言葉の意味が、次々と目に飛び込んできた。
術者の命が危険にさらされる。失敗すれば即死。成功しても、命の一部を失う。
(マックスは……これを使うつもりなの……!?)
書物を固く抱えたまま、スヴィーナはその場にへたり込んだ。大粒の涙が頬を伝い、床に落ちる。ぽた、ぽたと静かに音を立てて。
(死んじゃう……マックスが、死んじゃうよ……!)
震える手で本を固く閉じる。だが、あの赤い凶々しい文字は目に焼き付いて離れなかった。
どれくらいそうしていたのか、分からない。
やがてスヴィーナはフラフラと立ち上がり、その書物を胸に抱きかかえたまま古文書館を飛び出した。
夜空に月が昇り始めている。冷たい夜風が、濡れた頬を撫でていった。
(パティとクラリスに、相談しなきゃ……!)
スヴィーナは夜の街を全力で走り出した。
◇
夜。宿の一室に、三人が集まった。
小さな円卓を囲んで座る。スヴィーナ、パティ、クラリス。蝋燭の炎がゆらゆらと揺れ、三人の影が壁に大きく映っている。
「それで……話って何?」
パティが不安そうに尋ねた。
スヴィーナは黙って、抱えてきた革装丁の書物を卓の上に静かに置く。パティとクラリスが、固唾をのんでそれを見つめた。
「これは……」
クラリスが深く眉をひそめる。
「マックスが、古文書館で読んでいたものにゃ」
スヴィーナの声は激しく震えていた。
「開いて、見て」
パティが恐る恐る書物を開く。
赤い文字が目に入った瞬間、彼女は息を呑んだ。
「……嘘でしょ!?」
クラリスが無言で速やかにページを解読していく。その深い緑の瞳が、激しく揺れていた。
重い沈黙が続く。誰も何も言えない。蝋燭の炎だけが、パチパチと悲痛な音を立てていた。
「マックスは……これを使うつもりなの……?」
パティの声が、かすれて震えていた。
「多分……」
スヴィーナはギュッと目を伏せる。
「あたしたちを守るために、一人で……」
「止めなければなりません」
クラリスが静かに、しかし断固とした口調で言った。その声には、彼女には珍しく激しい感情が滲み出ている。
「ですが、どうやって……マックス様は、もう私たちの言葉を聞いてくださらない」
三人は顔を見合わせた。
クラリスが長くて細い指で卓を叩く。トントン、と規則正しい音が静寂に響いた。
やがて、彼女は力強く顔を上げた。
「ディアナ様に、相談しましょう」
「ディアナ様……?」
パティが首を傾げる。
「彼女なら、マックス様を止める方法を知っているかもしれません」
クラリスが静かに立ち上がった。
「今夜のうちに、王宮へ参りましょう」
スヴィーナとパティも即座に立ち上がる。
三人は初めて、マックス抜きで自らの意思で行動する決意を固めた。
窓の外では、冷たい月が高く高く昇っていた。




