第三十一話 大温泉の封印と最強の魔物
ディアナの案内で、俺たちは大温泉へと続く山道を登っていた。
王都を出て半刻ほど歩いただろうか。道は次第に険しくなり、足元の石が転がる音が響く。暗雲は空全体を覆い、風が冷たくなってきた。草の匂いが薄れ、代わりに湿った土の匂いが鼻をつく。
「もうすぐです」
ディアナが前を歩きながら言った。その声は固く張り詰めている。
山道を登り続けると、やがて巨大な石造りの遺跡が見えてきた。崩れかけた柱が何本も立ち並び、中央には湯気の上がるとてつもなく大きな池がある。だが立ち上る湯気は黒ずんでおり、水面は不気味に濁っていた。
「これが、大温泉……」
スヴィーナが息を呑んだ。遺跡全体から、肌が泡立つような静けさが漂っている。鳥の声も虫の音も一切聞こえない。風だけが、崩れた石の間を不気味に通り抜けていく。
「封印が、弱まっています」
クラリスが呟いた。
「魔物の気配が、強すぎます……」
俺も感じていた。胸の勾玉が熱を持ち始めている。ディアナが首から下げたペンダントも、微かに光を放っていた。
「始めましょう」
ディアナが池の前に立ち、ペンダントを高く掲げた。俺も勾玉を握りしめる。スヴィーナ、パティ、クラリスの三人が周囲を固め、警戒の目を光らせている。
ペンダントと勾玉が強く共鳴し始めた。光が激しさを増し、熱が手のひらにダイレクトに伝わってくる。封印の古文字が池の周囲に浮かび上がり、一つずつ消えていく。
ズズズ……と激しい地響きがした。池の水面が激しく波立ち、黒い泡が次々と湧き上がる。そこから、想像を絶する巨大な影が姿を現した。
「なっ……!」
予想を遥かに超える大きさだった。三階建ての建物ほどもある異形の黒い塊が、ゆっくりと立ち上がる。無数の触手がうねり、ギラギラとした赤い眼が俺たちを見下ろしている。空気が震え、耳が痛くなるほどの低い唸り声が周囲に響き渡った。
「こんなはずじゃ……!」
ディアナの声が激しく震えている。
魔物が巨大な触手を一斉に振り上げた。
「散れっ!」
俺が叫ぶと同時に、触手が地面を叩きつけた。
ドォンッ!という凄まじい轟音と共に石畳が砕け、岩の破片が激しく飛び散る。スヴィーナが悲鳴を上げて横に飛び、パティが地面を必死に転がる。クラリスが即座に防御魔法を展開するが、次の一撃で光の壁があっけなく砕け散った。
「くっ……!」
クラリスが膝をつく。
魔物は俺たちを無視して、四人娘に狙いを定めた。次々と獰猛な触手が襲いかかる。パティがまともに吹き飛ばされ、太い石柱に激しく叩きつけられた。鈍い音がして、パティがそのまま地面に崩れ落ちる。
「パティ!」
スヴィーナが駆け寄ろうとするが、別の触手が彼女の足首を固く捕らえた。
「きゃあっ!」
スヴィーナが宙に高く持ち上げられる。血の匂いが風に乗って運ばれてきた。
(このままじゃ、みんなが……!)
俺は激しく迷った。儀式を続けるべきか。それとも、仲間を守るべきか。
クラリスが立ち上がり、必死に魔法を放つ。だが魔物の動きは止まらない。スヴィーナが苦しそうに喘ぎ、パティは倒れたまま動かない。
(儀式を完成させれば、封印が解ける。でも、それまでにみんなが殺される……!)
手が震えた。勾玉を握る力が緩む。
ディアナが叫んだ。
「マックス様、儀式を! 止めないでください!」
だが、俺の体は勝手に動いていた。
「やめろっ!」
勾玉を握りしめ、全力で魔物に向けて聖光を放つ。
青い光が魔物の巨体を貫き、スヴィーナを捕らえていた触手が弾け飛んだ。
スヴィーナが地面に落ち、激しく咳き込む。
魔物が怯んだ。赤い眼が俺を睨みつけ、不気味な笑い声を上げた。そして、濃い黒い霧に包まれて姿を消した。
◇
静寂が戻る。
だが、封印は半分しか解けていなかった。池の周りに浮かんでいた文字が、中途半端に残ったまま固まっている。そして、残された封印から不穏な黒い光が漏れ出し、周囲の空気が重く澱んでいく。
「なぜ……!」
ディアナがその場に膝をつき、顔を覆った。
「なぜ儀式を止めたんですか!」
俺は何も言えなかった。胸の奥が冷たく凍りついていく。
(俺が、間違えた……)
クラリスがゆっくりと立ち上がり、不完全に残った封印を見つめている。
「封印が……逆に魔物を強化してしまいました」
その声は静かだったが、どこか冷たかった。
「次に現れる時、魔物はさらに強くなります」
パティが辛そうにうめき声を上げ、スヴィーナが彼女に駆け寄る。俺は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
◇
王都への帰り道、誰も口を開かなかった。
パティはスヴィーナに肩を借り、痛みに耐えながらゆっくりと山道を下っていた。ディアナは俺たちの前を歩き、一度も振り返らない。クラリスも、何も言わずに歩いていた。
俺は誰とも目を合わせられなかった。
(俺が、仲間を守ろうとして……事態を悪化させたんだ)
足元の石が転がる音だけが、やけに重く響いていた。
◇
王都に戻ると、広場に無数の民が集まっていた。希望に満ちた瞳で、俺たちを見ている。
ディアナが立ち止まり、深く息を吸った。
「封印は……解けませんでした」
その声は激しく震えている。
「魔物は、以前より強くなりました」
民の顔から、一瞬で希望が消え去った。ざわめく囁き声が広がり、絶望と失望の視線が一斉に俺たちに突き刺さる。
「このままでは……」
ディアナの声が途切れた。
「国が……滅びます」
膝をつき、両手で顔を覆うディアナ。その華奢な肩が、小刻みに震えている。
民の冷たい視線が、俺に集中した。誰も何も言わないが、その沈黙が痛いほど重い。
(全部、俺のせいだ……)
スヴィーナが俺の袖をそっと引いた。
「マックス……」
だが、俺は彼女の手を振り払って歩き出した。
宿に戻り、部屋の扉を強く閉める。背中に寄りかかり、そのまま床にへたり込んだ。
扉の向こうから、四人娘の気配がする。誰かが扉を静かにノックした。
「マックス、開けて……」
パティの声だ。だが、俺は答えなかった。ただ、膝を抱えて暗闇の中で座っている。
(俺が、守ろうとして……全部壊したんだ)
胸の奥が、どこまでも冷たく沈んでいった。




