第三十話 温泉国への帰還と新たな決意
美人国を後にして、俺たちは温泉国への道を急いだ。
九日間の旅路。最初の三日は草原を抜け、次の四日は森を越え、最後の二日は山道を登った。足が棒になるような行程だったが、誰も文句を言わなかった。スヴィーナは以前より足取りが軽く、パティは疲れ知らずで先を歩き、クラリスは地図を確認しながら最短ルートを示してくれた。
九日目の夕刻、俺たちは温泉国の王都の城門前に到着した。夕日が城壁を赤銅色に染めている。
門番が俺たちを認めると、すぐに槍を下げて道を開けた。
「お待ちしておりました。王女様がお呼びです」
門番の声に、緊迫した色が滲んでいた。俺は首を傾げる。
(何かあったのか……?)
城門をくぐると、石畳の道が王宮まで続いていた。道の両脇には民家が並んでいるが、人々の表情が暗い。何人かが不安そうに空を見上げていた。
「マックス、なんか変だよ」
パティが小声で囁く。俺も頷いた。
「ああ。前に来たときより、ずっと……」
「沈んでいますね」
クラリスが静かに続ける。スヴィーナの猫耳が、ぴくりと動いた。
「誰かが、泣いてるにゃ」
遠くから、子どもの泣き声が聞こえる。母親らしき女性が、必死に慰めていた。
◇
王宮の玄関に着くと、ディアナが待っていた。
彼女は気品ある深緑のドレスを纏い、栗色の長い髪を綺麗に編み上げている。見た目は前と変わらないが、表情が違っていた。目の下に薄い隈があり、口元が強張っている。
「待っていました」
ディアナが一歩前に出る。その声に、隠しきれない疲労が滲んでいた。
「お久しぶりです、ディアナ様」
俺が頭を下げると、ディアナは首を横に振った。
「形式は要りません。すぐに話があります」
彼女は踵を返し、王宮の奥へ歩き出した。俺たちは顔を見合わせてから、後に続く。
謁見の間に通されると、ディアナは執務机の上に古文書を広げた。羊皮紙が黄ばんでいて、文字が薄れている。
「大温泉の魔物が、活性化しています」
ディアナが指で古文書の一節を示した。
「この記録によれば、百年に一度、封印が弱まる時期があると。今がまさに、その時です」
「活性化って……どういうことですか?」
パティが身を乗り出す。ディアナの指が、古文書の別の箇所へ移った。
「魔物の力が増大し、周辺に悪影響を及ぼし始めています。作物が枯れ、井戸が干上がり、病人が増えている……」
スヴィーナの猫耳が完全に立ち上がる。
「それって……」
「このままでは、国が滅びます」
ディアナの声が、震えた。彼女は古文書を閉じ、両手を机の上に置いた。その手が、微かに震えている。
俺は息を呑んだ。
(まだ準備が……)
胸の奥に、不安が広がる。大温泉の魔物は、これまで戦ってきたどの魔物よりも強いはずだ。俺たちは本当に勝てるのか。
「マックス」
スヴィーナが俺の袖を引いた。彼女の澄んだ青い瞳が、真っ直ぐ俺を見つめている。
「今のあたしたちなら、戦えるにゃ」
その声に、迷いはなかった。パティも力強く頷く。
「あたしも成長した! 前より、ずっと強くなったよ!」
クラリスが静かに俺の隣に立った。
「運命の時かもしれません」
彼女の緑の瞳が、どこか遠くを見つめている。その視線の先には、一体何があるのだろう。
俺は深く息を吸った。
(そうだ。俺は一人じゃない)
「ディアナ様」
俺が口を開くと、ディアナが顔を上げた。
「力を貸してください。俺たちは、大温泉を解放します」
ディアナの固く強張っていた表情が、安堵でほころんだ。
彼女は机の引き出しから、小さな箱を取り出す。箱を開けると、中には古いペンダントが入っていた。銀色の鎖に、青い宝石が吊るされている。宝石の表面には、細かい紋様が刻まれていた。
「この秘宝が、力になるはずです」
ディアナがペンダントを差し出す。俺は恐る恐る手を伸ばし、それを受け取った。
ひんやりとした金属の感触。思ったより重い。
その瞬間、首にかけた勾玉がカッと温かくなった。微かな光が漏れ、低い共鳴音が響く。ペンダントの宝石も、同じように青く光り始めた。
「共鳴してる……」
クラリスが目を細める。俺はペンダントを握りしめた。
(これが、勝利への鍵になるのか……)
「ありがとうございます」
俺がディアナに頭を下げると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「いいえ。こちらこそ、感謝します」
◇
その夜、俺たちは王宮の温泉に入った。
湯気が立ち込め、月明かりが湯面を銀色に照らしている。硫黄の匂いが鼻をくすぐり、身体が芯から温まっていく。
五人で湯に浸かりながら、明日の決戦のことを話した。
「わたしは、前より強くなったにゃ」
スヴィーナが湯面に静かに手を滑らせる。
「一人で戦うんじゃなくて、みんなと戦うってこと、分かったから」
パティが嬉しそうに尻尾を振った。
「あたしもだよ! 自分で考えて、自分で動けるようになった!」
クラリスが静かに頷く。
「私も……変わりました」
彼女が湯から顔を上げ、遠くを見つめる。その視線の先には、王宮の外、温泉神の社がある方角があった。一瞬だけ、クラリスの表情が陰る。
(何を考えてるんだろう……)
俺は首を傾げたが、すぐにディアナが話しかけてきた。
「皆さんが来てくださって、本当に良かった」
ディアナが湯に身を沈める。
「一人では、どうしようもなかったから……」
「一人じゃ、ダメなんですよね」
俺が呟くと、全員が俺を見た。
「マックスも、変わったにゃ」
スヴィーナが微笑む。
「最初は一人で何でもやろうとしてたのに」
パティが笑った。
「今は、ちゃんとあたしたちを頼ってくれるもんね!」
俺は苦笑する。
「ああ。お前たちがいなきゃ、ここまで来られなかった」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(元の世界に帰ること……それより、今は)
仲間と共に戦うこと。それが、一番大切なんじゃないか。
そんなことを考えている自分に、驚いた。
「明日、すべてが変わる」
クラリスが静かに言った。
「予感がします」
全員が力強く頷く。俺も、まったく同じ予感を抱いていた。
◇
翌朝、王宮の中庭で五人は準備を整えた。
朝の光が石畳を照らし、鳥の声が爽やかに響いている。草の匂いが風に乗って運ばれてきた。
ディアナが深く頭を下げる。
「国の命運を、託します」
その頭の下げ方が、深くて長い。両手を膝の上に置き、背中を丸めている。
「必ず、成し遂げます」
俺が応えると、ディアナが顔を上げた。その瞳に、涙が光っている。
「ありがとうございます」
俺たちは王都を出て、大温泉へ向かう道を歩き始めた。
空を見上げると、遠くの空に暗雲が広がり始めていた。
(嵐が来る……)
胸の奥に、一抹の不安が残る。
それでも、俺は前を向いて歩き続けた。
仲間が、隣にいる。それだけで、十分だった。




