第二十九話 美人国の温泉と王との和解
廊下を歩く足音が、静かに響く。スヴィーナの手が、まだ俺の手を握っていた。柔らかく、少しだけ震えている。涙の跡が頬に残ったまま、彼女の猫耳は半分だけ伏せられていた。
パティが心配そうにスヴィーナを見つめながら、俺たちの後ろを歩いている。クラリスは相変わらず静かで、何かを見守るような表情だ。
(スヴィーナ、大丈夫か……?)
声をかけようとした時だった。廊下の先から、侍従が息を切らせて駆けてくる。
「お、お待ちください!」
俺たちは足を止めた。侍従は息を整えながら、深く頭を下げる。
「王が、再びお呼びです」
「……え?」
スヴィーナの手が、俺の手を強く握った。侍従が顔を上げる。その表情に、焦燥が浮かんでいた。
「新たに発見された温泉に、魔物が現れました」
俺とクラリスは顔を見合わせた。パティの犬耳がぴんと立つ。
「それは、俺たちの……」
「ええ。温泉解放の使命に関わることかと」
侍従の言葉に、スヴィーナの猫耳が完全に伏せられた。
「もう、関係ない」
スヴィーナが呟く。その声は小さく、だが拒絶の響きがあった。
「スヴィーナ」
俺は彼女の肩に手を置いた。
「温泉解放は、俺たちの使命だ。それに……」
スヴィーナが俺を見上げる。青い瞳が揺れていた。
「国に戻らなくても、人を助けることはできる。そうだろ?」
スヴィーナの猫耳が、ゆっくりと持ち上がる。
「……そうね」
彼女が小さく頷いた。
◇
俺たちは再び謁見の間に通された。王は玉座から降り、俺たちの前に立っていた。
「戻ってくれたか」
王の声に、先ほどのような威厳はなかった。代わりにあったのは、疲労と切実な懇願。
「国には戻らなくてもいい。だが……」
王が深く頭を下げた。
「新たな温泉を、解放してほしい」
(王が……頭を下げた!?)
パティが息を呑む音が聞こえた。スヴィーナは無言で、ただ王を見つめている。
「わかりました」
俺が答えた。
「温泉解放は俺たちの使命です。引き受けます」
王が顔を上げる。その瞳に、安堵の色が浮かんだ。
「感謝する」
「ただし」
俺は王を真っ直ぐ見た。
「これは、国のためじゃない。困っている人のため、そして俺たちの使命のためです」
王が深く頷く。
「それでいい」
そして、王は腰の剣の柄に手をかけた。
「私も、共に戦わせてほしい」
スヴィーナの猫耳が、ぴくりと動いた。
「父上……」
「娘を守るのは、父の務めだ」
王の言葉に、スヴィーナは何も答えなかった。ただ、背を向けて歩き出す。
「行きましょう」
その声に、感情は読み取れなかった。
◇
美人国の郊外、岩山に囲まれた窪地に、新たな温泉があった。
硫黄の匂いが濃く、鼻をつく。湯気が立ち込め、視界が白く霞んでいた。靴底を通して岩の凹凸が足裏に伝わり、熱気が肌を焼くように熱い。
そして、温泉の中央に巨大な影があった。
「あれが……魔物か」
パティが呟く。甲殻類のような姿をした魔物が、温泉を占拠していた。体長は五メートルを超える。鋭い鋏を振り上げ、こちらを威圧するように威嚇している。
「陣形を組め!」
俺が指示を出す。スヴィーナが左翼、パティが右翼に展開する。クラリスは後方で杖を構えた。王は俺の隣に立ち、剣を抜く。
「行くぞ!」
俺の号令で、戦闘が始まった。
スヴィーナのしなやかな爪撃が魔物の甲殻を鋭く削る。パティの速攻の蹴りが側面に炸裂する。クラリスの束縛魔法が魔物の動きを封じる。
だが、魔物は強大だった。強靭な鋏が横薙ぎに振るわれ、スヴィーナが吹き飛ばされた。
「スヴィーナ!」
俺の叫びが、岩山に反響する。
スヴィーナは岩壁に激突する寸前、しなやかな身のこなしで受け身を取り、衝撃を極力殺して地面に着地した。
(守れなかった……また、守れなかった……!)
頭の中で、あの日の恐怖が激しく渦巻く。
(違う、これは……!)
俺は我を忘れて、魔物に突進した。
「マックス、待て!」
クラリスの制止も聞こえない。ただ、スヴィーナを守らなければという激しい衝動だけが、俺を動かしていた。
その時だった。
「娘を守るのは父の務めだ!」
王の咆哮が轟いた。鋭い剣光が閃き、魔物の側面を深く斬り裂く。老いても衰えぬ百戦錬磨の気迫が、王の全身から溢れていた。
魔物が大きくよろめく。
「今だ!」
俺と王の息の合った連携で、魔物の甲殻に大きな亀裂が走る。クラリスの攻撃魔法がそこへ突き刺さり、破裂音とともに魔物が崩れ落ちた。
俺は胸元の青い勾玉を強く握りしめ、湯気立つ温泉へと向かって高く掲げた。
「封じられし湯よ、今再び目覚めよ!」
勾玉から聖なる青い光が溢れ出し、温泉全体を包み込んでいく。禍々しい呪いが霧散し、濁っていた湯が瞬く間に清らかな透明へと変わっていった。
温泉の復活だ。
俺は息を整えながら、スヴィーナのもとへ駆け寄った。
「スヴィーナ、無事か!?」
「……ええ」
スヴィーナがゆっくりと起き上がる。咄嗟に受身を取ったおかげで、大きな怪我はないようだ。だが、差し出した俺の手が微かに震えていることに、彼女は気づいていた。
(俺は……何を……)
王がスヴィーナに近づく。
「無事か」
「……はい」
スヴィーナが複雑な表情で頷いた。王は何も言わず、ただ愛おしそうに娘を見つめている。
温かな湯煙の中、静かな沈黙が温泉を包んだ。
◇
日が暮れ、復活した温泉に俺たちは身を沈めた。
透明な湯が体を包み込み、激闘の疲れがじんわりと溶けていく。
湯船の少し離れた場所で、スヴィーナと王が向かい合っていた。
「父上」
スヴィーナが口を開いた。
「なぜ、私を追放したんですか」
王が湯に肩まで浸かる。その表情には、深い陰りと疲労が浮かんでいた。
「陰謀があったのだ」
「……陰謀?」
「お前を王位につけまいとする者たちの、な」
王が遠くを見つめる。
「お前を国に置けば、いずれ命を狙われる。だから……嘘をついた。お前を深く憎んでいるふりをして、追放したのだ」
スヴィーナの猫耳が、ハッと完全に立ち上がった。
「それは……」
「本当は、追放などしたくなかった」
王の声が微かに震えた。
「すまなかった。我が娘よ」
スヴィーナの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
「私も……誤解していました」
スヴィーナが湯をかき分けて王に歩み寄る。
「父上を、ずっと憎んでいました」
「それでいい」
王が優しく微笑んだ。
「お前に憎まれても、生きていてさえくれれば」
二人は強く抱き合った。温泉の湯面に、柔らかな波紋が広がる。
俺は少し離れた場所で、その光景を静かに見つめていた。
(家族って……こういうものなんだな)
胸の奥が、温かく満たされていく。
パティが俺の隣に来て、にっこりと笑いかけた。
「よかったね、マックス」
「ああ」
クラリスが静かに頷く。
「運命ですね」
その言葉の真意を、俺はまだ理解していなかった。
◇
翌朝、俺たちは出発の準備を整えた。
王宮の大きな門の前で、スヴィーナが王に向き直る。
「父上」
「うむ」
「私は、マックスたちと旅を続けます」
王が頷いた。
「そうか」
「でも……」
スヴィーナが晴れやかに微笑む。
「いつか、必ず帰ってきます」
王の表情が、温かくほころんだ。
「待っているぞ」
スヴィーナが深く頭を下げる。王がその頭にそっと手を置いた。
「行け。お前自身の道を」
俺たちは美人国を後にした。
門を出たところでスヴィーナが振り返ると、王が小さく手を振っていた。スヴィーナも笑顔で手を振り返す。その青い瞳には、もう一片の迷いもなかった。
「さあ、次はどこに行くの?」
パティが明るく尋ねる。
「温泉国へ戻ろう」
クラリスが静かに地図を広げた。
「八十八か国の中心にある、最も重要な国です。ディアナ様と約束した通り、あの大温泉を解放するために力を尽くすべき時です」
俺は強く頷いた。
(温泉国……そこで、何が俺たちを待っているんだろう)
空を見上げる。雲ひとつないどこまでも澄み渡った青空が、俺たちの行く手を照らしていた。




