第二十八話 美人国の真実とスヴィーナの過去
窓の外で、夜が深まっていく。
だが、俺たちはすぐに眠りにつくことはなかった。クラリスが地図を広げ、パティが薪をくべ、スヴィーナが湯を沸かす。安宿の小さな部屋に、温かい匂いが満ちていく。
「次はどこに行くの?」
パティが尋ねた。犬耳がぴんと立っている。
クラリスが地図の一点を指さした。
「ベルフィーネ王国――通称、美人国です。ここから徒歩で七日ほど。以前、マックスさんとスヴィーナさんが温泉を解放した国ですね」
美人国。その名を聞いた瞬間、スヴィーナの猫耳が微かに揺れた。だが、彼女は何も言わなかった。湯を注ぐ手が、少しだけ震えている。
「大丈夫か?」
俺が尋ねると、スヴィーナは小さく頷いた。
「……平気よ」
声が、いつもより低い。
(何か、引っかかるな……)
だが、俺は無理に問い詰めなかった。お互いに本音をぶつけ合ったあの日、約束したばかりだ。彼女が自分の意思で話したくなったときに話してくれる。それを信じることが、今の俺にできることだ。
◇
翌朝、俺たちは宿を発った。石畳の道を歩き、森を抜け、川を渡る。七日間の旅は穏やかだった。パティが道端の花を摘み、クラリスが薬草を採取し、スヴィーナが狩りで兎を捕まえる。夜は焚き火を囲んで、他愛のない話をした。
だが、美人国に近づくにつれて、スヴィーナの様子が変わっていった。耳を頻繁に動かし、周囲を警戒するように見回す。会話も減り、焚き火の炎を見つめたまま黙り込むことが増えた。
「スヴィーナ、どうしたの?」
パティが心配そうに尋ねたが、スヴィーナは首を横に振った。
「何でもない」
その言葉に、嘘の匂いがした。
◇
七日目の昼過ぎ、俺たちは美人国の城下町に到着した。
石畳の大通りには露店が並び、色とりどりの布や宝石が陽光を弾いている。焼き菓子の甘い匂いと、香辛料の刺激的な香りが混ざり合う。人々の話し声が、波のように押し寄せてくる。
「すごい人だね!」
パティが目を輝かせた。だが、スヴィーナは俯いたまま、俺の袖を掴んでいる。
「大丈夫か?」
俺が囁くと、スヴィーナは小さく頷いた。だが、その手は微かに震えている。
その時、大通りの向こうから豪奢な馬車が近づいてきた。黒塗りの車体に、金の紋章が刻まれている。王宮の紋章だ。
馬車は俺たちの前で止まり、礼装を纏った使者が降りてきた。
「スヴィーナ様」
使者が深々と頭を下げた。
瞬間、スヴィーナの身体が硬直した。猫耳が完全に伏せ、尻尾が足に巻きつく。
「……なぜ、あなたがここに」
スヴィーナの声が震えている。
使者は顔を上げた。
「王がお会いしたいと仰せです。どうか、王宮へお越しください」
「断る」
スヴィーナが即答した。だが、使者は引き下がらない。
「王の命です。どうか」
「断ると言っている!」
スヴィーナの声が大通りに響いた。周囲の人々が振り返る。パティとクラリスが戸惑った表情で俺を見た。
俺はスヴィーナの小さく震える手を包み込んだ。冷たかった。
「スヴィーナ、無理に行く必要はない」
俺は静かに言い、彼女の目をまっすぐ見つめた。
「でも……もし会うつもりなら、俺たちも一緒に行く」
俺が言うと、スヴィーナがハッとして顔を上げた。
「マックス……」
「お前一人じゃない。俺たちがいる」
あの日、彼女が俺に言ってくれた言葉だ。今度は俺が返す番だった。
スヴィーナの青い瞳に、涙が滲んだ。彼女は強く頷いた。
「……わかった」
使者が安堵の息をついた。
「では、ご案内いたします」
◇
俺たちは馬車に乗り込んだ。車内は静かで、外の喧騒が嘘のようだ。スヴィーナは窓の外を見つめたまま、何も言わなかった。
王宮は、城下町の中心にそびえ立っていた。白い石壁と尖塔が、青空に映える。門をくぐると、広い中庭に噴水があり、水の音が静かに響いている。
謁見の間は、想像以上に広かった。高い天井、冷たい大理石の床、壁に掛けられた古い絵画。そして、奥の玉座に座る老いた王。
王は、スヴィーナを見つめていた。その目に、複雑な感情が宿っている。後悔、期待、そして深い愛執。
「……久しいな」
王の声が、重く静かに響いた。
スヴィーナは俯いたまま、答えなかった。
「顔を上げよ。我が娘よ」
その言葉に、俺とパティは息を呑んだ。
(娘……!?)
クラリスだけが、静かに頷いている。まるで、最初から知っていたかのように。
スヴィーナが、ゆっくりと顔を上げた。
「私は、もうあなたの娘ではありません」
「そうか」
王は悲しげに微笑んだ。
「だが、血は争えぬ。お前は王族の血を引く、美人国の姫だ」
スヴィーナの猫耳が、苦しげに伏せられた。
「国を継ぐために、戻ってきてほしい」
王の声が、切実な懇願に変わる。
「待ってください」
俺が一歩前に出た。
「彼女には、自分の意志で生き方を選ぶ権利があります」
王の鋭い視線が、俺に向けられた。
「貴様に何がわかる」
「わかりません」
俺は王の圧迫感を真っ直ぐ受け止めた。
「ですが、彼女は今、自分の足で自分の道を歩んでいます。仲間として、その決意を尊重してほしいんです」
王の拳が、玉座の肘掛けを固く握りしめた。
重苦しい静寂が、謁見の間を支配する。
そして、スヴィーナが凛とした声で口を開いた。
「私には今、大切な仲間がいます」
スヴィーナの声が、震えながらも確かな強さを伴って響く。
「国には、戻りません」
王の表情が、一瞬強ばった。
かつて幼い娘を束縛し、追い詰めてしまった後悔。そして今、自立した凛々しい瞳で仲間とともに立ち向かってくる娘の姿。
王はゆっくりと目を閉じ、肩の力を抜いた。その皺の深まった顔に、厳格な王としてではなく、ただ一人の父親としての温かな笑みが滲み出る。
「……そうか」
王が静かに呟いた。そこにはもう、権力者としての圧力はなかった。
「それでいい。お前は、自由だ」
その笑顔を見たスヴィーナの青い瞳が、見開かれた。
「父上……」
「行け。お前自身の道を」
王が優しく手を振った。
スヴィーナは、深く深く頭を下げた。大粒の涙が、大理石の床にぽろぽろと落ちる。
◇
俺たちは謁見の間を出た。
輝く陽光が差し込む廊下を歩きながら、スヴィーナが俺の手をキュッと固く握りしめてきた。
「ありがとう」
小さな声。だが、そこには確かな温もりと、過去の呪縛から解き放たれた晴れやかな響きがあった。




