第三話 温泉解放の技能
足を踏み出す。朝露に濡れた草が、足首を撫でた。
獣道は細く、踏み固められた土の感触が足裏に伝わる。木々が両側から覆いかぶさり、朝日が葉の隙間から細く差し込んでいた。光の筋が朝霧を照らし、浮かび上がらせる。静寂の中、俺の足音だけが響いた。
勾玉が微かに温もりを帯びている。胸元で規則的に脈動し、まるで心臓のように鼓動していた。その温もりが、進むべき方向を示しているようだった。
(これが、温泉解放の技能……)
言葉で説明されたわけではない。ただ、勾玉を通して感じ取れる。温泉がある方角、封印の気配、魔物の存在。すべてが曖昧な感覚として、脳裏に流れ込んでくる。
道が徐々に険しくなっていく。倒木が行く手を阻み、蔦が絡みついていた。俺は手で蔦を払いのけ、倒木を乗り越える。木の幹に手をついた瞬間、湿った苔の冷たさが掌に沁みた。
空気が変わった。重く、湿っぽい。温泉特有の硫黄の匂いが微かに漂い始める。勾玉の脈動が速まり、温もりが熱に変わっていく。
(近い)
蔦を掻き分けた先に、それはあった。石造りの古い建物。半分崩れた壁、苔むした柱、割れた屋根。かつては立派な温泉施設だったのだろう。今は廃墟と化し、森に呑み込まれかけていた。
入口の石段を上る。一段ごとに、足が重くなっていく。空気が粘つくように纏わりつき、呼吸が浅くなった。
石壁に、紋様が浮かび上がっていた。淡く光る幾何学模様。円と直線が複雑に絡み合い、見ているだけで目が眩みそうになる。封印の紋様――勾玉から流れ込む知識が、そう告げていた。
俺は勾玉を握りしめた。瞬間、視界が白く染まった。映像が脳裏に流れ込む。手順、動作、言葉。すべてが一度に押し寄せ、頭蓋を圧迫した。
俺は壁に手をつき、膝をついた。吐き気がこみ上げる。
(これが……儀式の手順……)
映像が収まるのを待ち、俺はゆっくりと立ち上がった。手が震えている。深呼吸をして、震えを抑える。
紋様に手を伸ばした。指先が石壁に触れた瞬間、紋様が激しく光った。温もりが指を伝って腕に流れ込む。俺は映像で見た通りに、紋様の交点を順番になぞっていく。
言葉が口をついて出た。
「――封じられし湯よ、今再び目覚めよ」
自分の声ではないような気がした。低く、響く声。紋様が一つずつ光を増していく。
「――大地の恵み、命の源、流れを取り戻せ」
空気が震えた。石壁全体が振動し、細かな砂埃が舞い落ちる。封印が、解け始めていた。
その時、背後で何かが蠢いた。俺は振り返った。
温泉の湯だまりから、黒い霧が立ち上っていた。霧は渦を巻き、形を成していく。人の背丈ほどの大きさ。ぼんやりとした輪郭だけが見える、不定形の存在。魔物だ。
霧が俺へ向かって伸びてくる。俺は咄嗟に身を引いた。霧が通り過ぎた場所の草が、一瞬で枯れた。
(儀式を続けるか、戦うか――)
迷っている暇はなかった。霧が再び襲いかかってくる。俺は地面を転がり、距離を取った。背中に小石が食い込む。
勾玉が激しく脈動している。封印は半分しか解けていない。このままでは――
俺は立ち上がり、壁へ走った。
霧が追ってくる。俺は走りながら詠唱を続けた。
「――縛りを解き、流れを……!」
霧が腕を掠めた。鋭い痛みが走り、皮膚が焼けるような感覚。俺は歯を食いしばり、壁に手をついた。紋様が再び光る。封印が、さらに解けていく。
その瞬間、魔物の動きが鈍くなった。
(封印が解けると、魔物の力が弱まる……!)
俺は紋様をなぞり続けた。霧が再び襲いかかってくるが、動きが明らかに遅い。俺は身をかわし、詠唱を続ける。
「――流れを取り戻せ、今ここに……!」
地面が揺れた。湯だまりから、湯気が立ち上り始める。湯が湧き出す音が聞こえた。ゴポゴポと、地の底から響いてくるような音。
魔物が悲鳴のような音を上げた。霧の輪郭が崩れ、黒い霧となって湯だまりの奥へ逃げていった。だが、完全には消えない。俺の体力が限界に近づいていた。
(もう少し……あと少しで……!)
だが、手が震えて紋様をなぞれない。視界が揺れ、膝が笑う。
魔物が最後の力を振り絞ったように、俺へ突進してきた。俺は避けきれず、肩に霧が直撃した。激痛が走り、体が吹き飛ばされる。
地面に叩きつけられた。息が詰まり、肺が悲鳴を上げる。
魔物が俺の上に覆いかぶさろうとした。その時、湯だまりから大量の湯が噴き出した。湯気が魔物を包み込み、霧が一気に薄れていく。
魔物は悲鳴を上げ、霧散した。
静寂が戻った。俺は仰向けに倒れたまま、荒い息をついた。
全身が痛む。肩が特に痛い。服が焼け焦げ、皮膚が赤く腫れていた。湯が湧き出す音だけが、静かに響いている。
(倒せた……のか?)
違う。逃げただけだ。完全には倒せていない。封印も、半分しか解けていない。
俺はゆっくりと体を起こした。湯だまりの縁まで這っていき、手を浸す。温かい。久しぶりに感じる、人肌の温もり。湯が手を包み込み、痛みが少しだけ和らいだ。
(これが、温泉……)
だが、湯の量は少ない。完全に解放されていれば、もっと豊かに湧き出るはずだ。俺は湯に手を浸したまま、力なく座り込んだ。
(一人じゃ、無理だ)
認めたくなかった。だが、現実は残酷だ。儀式と戦闘を同時にこなすのは、俺一人では不可能だった。
足音が聞こえた。俺は顔を上げた。木陰から、数人の人影が見えた。村人だ。三人、いや四人いる。彼らは俺を見て、湯だまりを見て、目を見開いた。
一人が駆け寄ってきた。中年の男性で、村で見かけた顔だ。
「本当に……湯が……」
男は湯だまりに手を伸ばし、湯に触れた。驚きと畏怖の入り混じった表情で、俺を見た。
「あんた、本物だったのか……」
俺は何も答えられなかった。ただ、湯に手を浸したまま、座り込んでいるだけ。別の村人が言った。
「村長に知らせないと。すぐに戻る!」
一人が走り去る。残った村人たちは、俺と湯だまりを交互に見ていた。やがて、彼らも静かに立ち去った。
一人残された俺は、湯を見つめた。半分しか解放できなかった温泉。逃げた魔物。傷だらけの体。
(仲間が、必要だ)
その現実が、重く胸にのしかかった。




