第二話 旅立ちと最初の村
石畳を踏みしめる音が、静寂の中で響いた。俺は社の鳥居を抜け、獣道へ足を踏み入れる。木々の間から朝日が差し込み、露に濡れた葉が光を跳ね返していた。空気は冷たく、吸い込むたびに肺が痛んだ。
勾玉が胸元で揺れる。青白い光は消えていたが、微かな温もりが残っていた。
(仲間を見つけろ、か)
温泉神の言葉が頭の中で反響する。俺は歩きながら、周囲に視線を巡らせた。森は深く、獣の気配はあるが人の姿は見えない。鳥の鳴き声だけが木々の間を渡っていく。
足元の道は踏み固められていた。誰かが通った痕だ。それに従って歩き続ける。傷はまだ痛むが、動けないほどではない。脇腹を押さえながら、一歩ずつ前へ進んだ。
太陽が頭上を過ぎ、西へ傾き始めた頃、木々の間から煙が見えた。炊事の匂いが風に乗って届く。俺は足を速めた。喉が渇き、空腹が腹の底で唸っていた。
森を抜けると、小さな村が現れた。畑が広がり、数十軒の家が寄り添うように並んでいる。煙突から白い煙が立ち上り、夕暮れの空に溶けていく。人の声が聞こえた。畑仕事を終えた村人たちが、鍬を担いで家路につくところだった。
俺は村の入口で立ち止まった。勾玉を握りしめる。
(ここから始めるしかない)
足を踏み出そうとしたとき、村人の一人がこちらを見た。中年の男で、日焼けした顔に深い皺が刻まれている。男は俺を見て、動きを止めた。警戒の色が瞳に浮かぶ。
「すみません」
俺は声をかけた。だが、男は眉をひそめるだけで答えない。
(言葉が……通じない?)
焦りが胸に広がる。俺は身振り手振りで、宿を尋ねようとした。屋根の形を手で作り、寝る仕草をする。男は首を傾げ、それから背後の仲間に声をかけた。数人の村人が集まってくる。みな同じように俺を警戒していた。距離を取り、鍬を握る手に力が籠る。
「違う、俺は……」
言葉が通じない。俺は勾玉を取り出し、掲げた。青白い光が微かに灯り、一瞬温かな熱を帯びる。
村人たちは顔を見合わせた。だが、期待した反応は返ってこなかった。不審そうな視線が注がれるだけだ。一人の若い男が前に出て、俺の腕を掴んだ。
「ついて来い」
突然、言葉が理解できた。勾玉を通じて発動した温泉神の加護だろうか。だが、男の声には警戒と拒絶が滲んでいた。俺は引っ張られるように、村の中へ連れて行かれた。
◇
村長の家は、村の中央にあった。他の家より少し大きく、屋根には苔が生えている。扉の前に立たされ、若い男が中へ声をかけた。しばらくして、初老の男が姿を現した。
村長は俺を値踏みするように見た。痩せた体、白髪混じりの髪、疲れ切った瞳。その瞳には諦めの色が浮かんでいた。
「中へ入れ」
村長の声は低く、感情が読めなかった。俺は促されるまま、家の中へ入る。土間を抜けて居間に通されると、すでに数人の村人が待っていた。みな無言で俺を見つめている。
俺は床に座らされた。村長が正面に座り、腕を組む。
「名は」
「マックスです」
「どこから来た」
「……遠くから」
村長は鼻を鳴らした。
「よそ者だな。何の用だ」
俺は勾玉を取り出した。青白い光が室内を照らす。村人たちがざわめいた。
「温泉を、解放しに来ました」
沈黙が落ちた。村長は目を細め、それから深いため息をついた。
「またか」
呟きに、俺は眉をひそめた。
「また……?」
「お前で三人目だ」
村長は疲れた声で言った。
「みな同じことを言う。温泉を解放する、魔物を倒す、村を救う。だが誰一人、戻ってこなかった」
村人たちの視線が冷たくなる。俺は言葉を失った。
村長は立ち上がり、窓の外を見た。夕日が畑を赤く染めている。
「あの温泉が封じられてから、村は衰退した。作物は育たず、病が流行り、若者は出ていく。もう十年になる」
村長の声には、深い絶望が滲んでいた。
話を聞くうちに、ここがシルヴァーナ公国――通称「森の国」と呼ばれる国だと分かった。
「本当に温泉を解放できるなら、協力しよう。だが失敗したら、二度と村に戻ってくるな」
俺は頷いた。
「……分かりました」
村長は振り返り、俺を見た。
「宿はあるか」
「いえ」
「金は」
俺は首を横に振った。村長は長い沈黙の後、ため息をついた。
「物置を貸してやる。一晩だけだ」
◇
物置小屋は村の外れにあった。古い木材で組まれた小屋で、隙間から風が入り込む。床には埃が積もり、農具が雑然と置かれていた。
俺は隅に座り込み、背中を壁に預けた。空腹が腹を締め付ける。喉が渇いていたが、水を求める気力もなかった。
(三人目、か)
村長の言葉が頭から離れない。俺の前にも、同じように温泉を解放しようとした者がいた。そして、誰も戻ってこなかった。
勾玉を握りしめる。青白い光が微かに揺れた。
(一人で、勝てるのか……?)
不安が胸を満たす。俺は目を閉じ、深く息を吐いた。体は疲れていたが、眠れなかった。焦りと恐怖が、意識を掴んで離さない。
どれくらい時間が経っただろうか。ようやく浅い眠りに落ちたとき、夢を見た。
炎が視界を満たしていた。熱が肌を焼き、煙が肺に入り込む。咳き込みながら、俺は前へ走った。仲間の背中が見える。だが、届かない。手を伸ばすたびに、距離が遠ざかっていく。
「待ってくれ……!」
叫び声は炎に呑まれた。仲間が倒れる。一人、また一人。俺は走り続けたが、誰も救えなかった。
「お前のせいだ」
声が響いた。誰の声かは分からない。ただ、その言葉だけが頭蓋に刻まれていく。
「お前が弱いから」
「お前が遅いから」
「お前が――」
俺は飛び起きた。冷や汗が全身を濡らし、心臓が激しく打っていた。手が震えている。呼吸が荒く、喉が焼けるように痛んだ。
周囲は静かだった。夜明け前の薄闇の中、鳥の鳴き声だけが聞こえる。俺は膝を抱え、震えが収まるのを待った。
(また、失うのか……?)
問いに、答えはなかった。
◇
空が白み始めた頃、俺は物置を出た。村はまだ静かで、朝靄が地面を這っていた。冷たい空気が肺に染みる。
俺は村長の家の前を通りかかった。扉が開き、村長が姿を現した。二人の視線が交わる。
村長は無言で、森の方角を指差した。
「戻ってこなくても、探さない」
声には感情がなかった。ただ、事実を告げるだけ。俺は頷いた。
「……ありがとうございました」
村長は何も答えず、扉を閉めた。俺は村を後にした。
朝日が背中を照らし、影が長く地面に伸びる。勾玉が胸元で光り始めた。微かな温もりが、震える手に伝わってくる。
森の入口で、俺は立ち止まった。木々の向こうに、温泉がある。そこに巣食う魔物が、俺を待っている。
(一人で、行くしかない)
足を踏み出す。朝露に濡れた草が、足首を撫でた。




