第一話 異世界転生と最初の敗北
石畳が冷たい。それが最初に感じたことだった。頬に張り付く冷気、背中に食い込む硬い感触。俺は目を開けた。見上げた先には灰色の空が広がり、朝霧が低く垂れ込めている。
(ここは……どこだ?)
体を起こすと、軋むはずの肩が軽い。いや、軽すぎる。確かあのとき、俺は――
「目覚めたか、マックス」
声が響いた。振り向くと、古びた石造りの社が建っている。その前に、青白く光る人影があった。輪郭は曖昧で、男なのか女なのかも判然としない。ただ声だけが、湿った空気を震わせて耳に届く。
「お前は……」
「温泉神と呼ばれている」
人影はそう名乗った。俺は立ち上がり、無意識に胸を触った。傷がない。あの日、仲間を庇って受けた致命傷が、跡形もなく消えている。
「俺は死んだはずだ」
「その通り。だがお前を選んだ。この世界で果たすべき試練がある」
温泉神と名乗る存在は、社の奥を指差した。そこには小さな泉があり、白い湯気が立ち上っている。硫黄の匂いが鼻を突いた。
「八十八か国すべてに、温泉が封印されている。魔物に占拠され、呪いで力を奪われた。お前はそれを解放せよ」
「なぜ俺が」
「お前なら成し遂げられる」
温泉神の声には不思議な響きがあった。断定でも命令でもなく、まるで既に起きた未来を語るような、静かな確信。
「試練を果たせば、元の世界に帰れる」
その言葉に、俺の呼吸が止まった。帰れる。元の世界に。
「……本当か」
「嘘は言わぬ」
温泉神は手を差し出した。その掌に、青い勾玉が浮かんでいた。光を宿した石は、脈打つように明滅していた。
「これを持て。温泉を解放する力を授ける」
俺は勾玉を受け取った。掌に乗せた瞬間、温かさが指先から腕へと伝わる。重みはほとんどないのに、確かな存在感があった。
「ただし、一つ忠告しておく」
温泉神の声が低くなった。
「お前一人では勝てぬ。仲間を見つけよ」
仲間。その言葉が胸に突き刺さる。俺は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みで、フラッシュバックを押し込める。
「分かった」
俺は勾玉を首に下げた。紐が首筋に触れ、石が胸元で揺れる。
「社の裏手に、最初の温泉がある。まずはそこから始めよ」
温泉神の姿が薄れていく。青白い光が霧に溶けるように消え、俺は一人、社の前に立っていた。
◇
森を抜けると、開けた場所に出た。地面から湯気が噴き出している。岩に囲まれた泉は、灰色に濁っていた。本来なら透明な湯のはずが、呪いに侵されているのだろう。硫黄の匂いが濃く、喉の奥が焼けるようだ。
(ここが最初の温泉か)
俺は勾玉を握った。温かさが増し、微かに振動する。どうやって使えばいいのか、説明は受けていない。だが、体が自然に動いた。
「温泉解放――」
言葉が口をついて出る。勾玉が強く光り、泉に向けて青い光の筋が伸びた。その瞬間、湯面が爆発した。水柱が上がり、その中から巨大な影が現れる。全身が岩のような硬質の皮膚で覆われた、人型の魔物。身長は三メートルを超え、腕は丸太のように太い。赤く光る目が、俺を捉えた。
「グオオオオオッ!」
咆哮とともに、魔物が腕を振り下ろす。俺は横に跳んだ。拳が地面を叩き、石畳が砕け散る。破片が頬を掠め、熱い痛みが走った。
(速い!)
体は軽い。だが、魔物の動きはそれ以上だ。次の一撃が迫る。俺は勾玉を掲げ、光を放とうとしたが、間に合わなかった。魔物の拳が脇腹に叩き込まれる。視界が白く染まり、体が宙を舞った。背中が木の幹に激突し、肺から空気が全て押し出される。地面に崩れ落ちた俺は、呼吸ができなかった。口の中に鉄の味が広がる。
(クソ……!)
立ち上がろうとするが、肋骨が軋んで動けない。魔物はゆっくりと近づいてくる。地響きが全身に伝わり、恐怖が背筋を這い上がった。
だが、魔物は止まった。俺を見下ろし、動けなくなった俺に興味を失ったように湯面へ戻っていく。温泉を守ることが本能なのか、追撃してくる気配はない。水音とともに巨体が沈み、再び静寂が訪れた。
俺は横たわったまま、空を見上げた。灰色の雲が流れていく。
(一人じゃ……勝てない)
◇
社に戻ったとき、温泉神は待っていた。
「仲間を見つけよ」
同じ言葉が繰り返される。俺は石段に座り込み、勾玉を握りしめた。仲間。あの日の光景が蘇る。炎、叫び声、倒れていく背中。俺は誰も守れなかった。力が足りなかった。一人で戦って、一人で負けて、全員を失った。
「……仲間を作れば、また失うかもしれない」
呟きに、温泉神は答えなかった。ただ青白い光が揺らめくだけだ。俺は立ち上がった。傷はまだ痛むが、歩ける。勾玉が胸元で微かに光っている。
(帰るんだ。元の世界に)
そのためには、試練を果たすしかない。一人では勝てないなら、仲間を見つけるしかない。また失うかもしれない。また守れないかもしれない。それでも――
夜が明けた。朝日が石畳を照らし、長い影が伸びる。俺は社を振り返り、それから前を向いた。冷たい石畳を踏みしめ、一歩を踏み出す。旅が、始まる。




