第二十六話 裏切りの影と信頼の試練
王都を出てから五日が経った。
足の裏が痛い。靴底を通して、小石のひとつひとつが骨に響く。街道の両脇には枯れ草が広がり、風が吹くたび砂埃が舞い上がる。喉の奥がざらつく。水筒を振ると、残り少ない水が音を立てた。
「……疲れたにゃ」
スヴィーナが小さく呟いた。猫耳が普段より下がっている。銀色の髪に砂が付いていた。
「もうちょっとだよ! あそこに街が見えるもん!」
パティが前を指差す。犬耳がぴんと立っている。確かに、街道の先に建物の影が見えた。温泉国の隣にある、小さな国の街だった。
「……急ぎましょう」
クラリスが静かに言った。彼女の青いローブも、旅の埃で色が褪せて見える。
俺たちは足を速めた。夕日が背中を押す。影が長く伸びる。
街の入口に着いたとき、豪華な馬車が止まっていた。黒塗りの車体に、金色の装飾。二頭立ての馬が、鼻を鳴らしている。
「おや、これはこれは」
馬車から中年の男が降りてきた。紫色の上着に、宝石のついた指輪。太った体を揺らしながら、俺たちに近づいてくる。
「温泉解放の英雄とお見受けする。噂はここまで届いておりますぞ」
男は深々と頭を下げた。丁寧すぎる仕草。妙に滑らかな笑みを浮かべている。
「あなた方のご活躍、この国でも語り草になっております。どうか、私めにお手伝いをさせていただけませんか」
お手伝い……? 俺は仲間たちを見た。パティが嬉しそうに尻尾を振っている。スヴィーナだけが、耳を伏せていた。
「……にゃ」
スヴィーナが俺の袖を引く。小さな力だったが、その仕草には強い警戒心が滲んでいた。
「この国の温泉も、魔物に封じられております」
男は続けた。
「私は貴族の端くれ。この国を救いたい一心で、あなた方をお待ちしておりました。どうか、温泉解放にお力をお貸しください。私が案内いたします」
案内……それは助かる。土地勘のない国では、温泉の場所を探すだけで時間がかかる。
「近道も存じております。街道を使えば三日かかる道を、一日で」
男の笑顔が深くなった。宝石の指輪が夕日を反射して、きらりと光る。
「……マックス」
スヴィーナが俺の袖を強く引いた。猫耳が完全に伏せている。青い瞳が、男を睨んでいた。
「怪しいにゃ。この人……」
「……私も少し引っかかります。ですが、最終的にはマックスさんのご判断に」
クラリスも目を細め、静かに男を観察しながら呟いた。
「疑いすぎだ」
俺は小声で言った。
「せっかく助けてくれるって言ってるのに」
「でも……」
「俺たちを助けたい人を疑うのか?」
声が、思ったより強く出た。スヴィーナが僅かに身を引く。
(いや、言い過ぎたか……)
だが、疲れていた。五日間の徒歩移動で、体も心も擦り切れている。善意を無駄にしたくない。そう思った。
「……お願いします」
俺は男に向き直った。
「案内していただけますか」
男の笑顔が、さらに広がった。
「もちろんでございます。さあ、こちらへ」
男は森の方を指差した。街道を外れた、獣道のような細い道。木々が影を落とし、薄暗い。
「近道でございます。すぐに着きますよ」
パティが歩き出し、クラリスも警戒を保ちつつ後に続いた。スヴィーナは動かなかった。俺の袖を掴んだまま、じっと男を見ている。
「……スヴィーナ」
「……分かったにゃ」
彼女は小さく頷いた。だが、猫耳は伏せたままだった。
森の中は冷たかった。木々が日差しを遮り、湿った空気が肌に纏わりつく。道は次第に狭くなり、足元が不安定になる。枯れ枝を踏む音だけが、静寂を破った。
「もうすぐでございます」
男が前を歩く。その背中が、妙に大きく見えた。
足元に、何かが光った。
「……ここだ」
男が立ち止まる。そして、足元の光る円を踏んだ。
魔法陣だ。
「え……?」
次の瞬間、足元の地面が崩れ去った。
浮遊感。体が宙に浮く。スヴィーナの悲鳴が聞こえた。パティが何か叫んでいる。視界が回転し、背中から硬い石に叩きつけられた。
「がっ……!」
息が詰まる。肺から空気が抜ける。頭が激しく揺れた。
「マックス!」
パティの声。俺は必死に体を起こした。
そこは薄暗い石造りの地下牢だった。側面に頑丈な鉄格子の扉があり、天井の吹き抜けから男の嘲笑が降ってくる。
「はっはっは! まんまと引っかかりましたな」
男が吹き抜けの上から覗き込んでいた。さっきまでの丁寧な笑顔は消え、醜い悪相に変わっている。
「奴隷商人が高値で買うと言っていた。特に、犬耳の娘はな!」
パティが息を呑む。
「やめて……!」
「おい、連れて来い」
男が手を叩くと、牢の鉄格子の扉が解錠され、数人の手下が踏み込んできた。粗末な服を着た傷だらけの男たち。そのごつい手が、パティの腕を力任せに掴んだ。
「離せ! 離してよ!」
パティが暴れる。だが、手下の力は強い。強引に引きずられていく。
「パティ!」
俺は立ち上がろうとした。だが、落下の衝撃で膝が震え、体に力が入らない。
「俺が……」
拳で石の床を叩いた。冷たさが沁みる。もう一度叩く。皮が破れて、血が滲んだ。
「俺が信じすぎた……!」
スヴィーナの警告を無視した。善意だと思い込んだ。そして、仲間を危険に晒した。
(また、守れなかった……)
過去の記憶が蘇る。元の世界で、仲間を失ったあの日。力が足りなくて、判断を誤って、大切な者を守れなかった。
「マックス」
スヴィーナの声。彼女が俺の肩にそっと手を置いた。
「……今は、脱出を考えましょう」
冷静な声。だが、その表情はいつになく硬かった。
「パティが捕まっている……下手に広域魔法は使えないにゃ」
「……任せてください」
スヴィーナがクラリスと視線を交わした。
スヴィーナが凄まじい速度で踏み込んだ。猫のようなしなやかな身のこなしで、パティを掴んでいた手下の腕に鋭い蹴りを叩き込む。
「きゃっ!?」
手下が腕を押さえて怯む。
「パティ、下がるにゃ! クラリス、今だ!」
パティが手下の手から逃れ、俺たちの元へ転がり込む。その瞬間、後方に控えていたクラリスの手から青白い光が迸った。
魔法陣が空中に展開し、鉄格子の扉と押し寄せる手下たちを包み込む。破裂音とともに強烈な衝撃波が吹き荒れ、手下たちが吹き飛ばされた。
「今のうちに、階段を上るにゃ!」
スヴィーナが地下牢の奥へ続く階段を指差す。
「逃げるぞ!」
俺はようやく立ち上がった。四人で地下牢の階段を駆け上る。
地上へ出ると、男はすでに馬車へ乗り込むところだった。
「待て!」
俺は叫んだ。だが、馬車は激しく鞭を打たれ、スピードを上げて走り去っていく。男の嘲笑だけが風に乗って消えていった。
森の中に、むなしい静寂が戻る。
男が示していた「近道」は、温泉とは全く逆方向の罠地帯だった。それどころか、勾玉が示す方角へ目を向けると、坑道の入り口が巨大な岩で塞がれていた。周囲には、男の手下たちが残したと思われる足跡があった。
案内どころか、温泉への道すら完全に封鎖されたのだ。解放は、失敗だった。
「……俺の、判断ミスで」
声が震えた。パティが俺に抱きついてくる。その小さな体は、まだ微かに震えていた。温かい体温が伝わってくる。だが、それが余計に胸を締め付ける。
「マックスのせいじゃないよ! あたし、大丈夫だから!」
パティが必死に励ましてくれる。だが、俺の心は押し潰されそうだった。
スヴィーナが、少し離れた場所に立っている。猫耳は伏せられたまま。その静かな瞳が、俺を見つめていた。
「……今は、休みましょう」
優しい声。だが、その瞳には、確かに深い失望の色が浮かんでいた。




