第二十五話 温泉国の王女ディアナ
砂漠を出てから八日が経った。俺たち四人は、丘の上から温泉国の王都を見下ろしていた。
夕日が石造りの街並みを赤銅色に染め、中央にそびえる王宮が威厳を放っている。
だが、どこか違和感があった。街全体が静まり返っているのだ。人の声も、商人の呼び声も、子どもたちの笑い声も聞こえない。
「……思ったより、静かな街ね」
スヴィーナが耳を動かしながら呟いた。
「温泉が封じられてるからかな」
パティが首を傾げた。
「ええ。恐らく」
クラリスが腕を組んで街を見つめている。
俺は勾玉を握りしめた。温かい感触が掌に伝わる。この街を、救わなければ。そう思った。
「……行こう」
俺たちは丘を下り、街の門をくぐった。
石畳の道に足を踏み入れた瞬間、硫黄の匂いが鼻をついた。だがそれは、かすかな残り香でしかない。
街のあちこちに、枯れた噴水があった。底には白い湯の花の跡が残っている。かつてここに温泉が湧いていたのだろう。
閉ざされた浴場の前を通りかかった。扉には錆びた鎖がかけられ、誰も入れないようになっている。
「ここも……」
パティが悲しそうに呟いた。
広場の隅で、老人が一人、枯れた噴水を見つめていた。乾いた唇が小刻みに震えている。俺たちに気づいた老人は、虚ろな目を向けた。
「旅の方か……」
老人の声は掠れていた。
「昔はな、ここに温泉が湧いていたんだよ。湯気が立ち上って、街中が暖かかった。子どもたちも、年寄りも、みんな笑っていた」
老人は噴水の縁に手を置いた。
「それが今じゃ、こんな有様だ」
スヴィーナが老人の手をそっと握った。何も言わず、ただ頷いた。
老人は目を細めて、彼女の手を握り返した。
「……王宮へ行くといい。王女様が、あんたたちを待っておられる」
老人はそう言って、王宮への道を指差した。俺たちは礼を言って、王宮へ向かった。
街を歩くたび、人々の疲れた顔が目に入る。活気のない足取り。閉ざされた店。かつての繁栄の痕跡だけが、街のあちこちに残っていた。
(これが、温泉が封じられた国の姿か……)
胸が重くなる。だが、俺は歩みを止めなかった。
◇
王宮の門をくぐると、兵士が俺たちを謁見の間へ案内した。
広い石造りの部屋に、豪華な調度品が並んでいる。だが、よく見ると埃が積もり、手入れが行き届いていない。壁に掛けられたタペストリーも、色褪せていた。
「お待ちしておりました」
凛とした声が響いた。
奥の扉が開き、一人の女性が現れた。長い栗色の髪を後ろで束ね、深紅のドレスを纏っている。整った顔立ちに、強い意志を宿した瞳。
王女――ディアナだ。
彼女は俺たちの前に立ち、深く一礼した。
「温泉を解放する旅人の方々。ようこそ、温泉国へ」
「……お初にお目にかかります」
俺も頭を下げた。
ディアナは顔を上げ、俺たちを見つめた。
「あなた方の噂は聞いています。いくつもの国で、封じられた温泉を解放したと」
彼女の声には、切実さが滲んでいた。
「どうか、お願いします。我が国の温泉を、救ってください」
彼女は両手を胸の前で組んだ。王女としての威厳を保ちながらも、民を想う気持ちが痛いほど伝わってくる。
俺は「力を尽くします」と答えようとした。
その瞬間、クラリスの視線を感じた。彼女は静かに首を横に振っている。
俺は言葉を飲み込んだ。
ディアナは窓の方へ歩いた。遠くに、巨大な岩山が見える。その中腹に、封印された大温泉があるのだろう。
「……ですが」
ディアナは振り返った。
「大温泉の魔物は、他とは比べ物になりません。今のあなたたちでは、勝てないでしょう」
彼女の言葉に、俺の胸が詰まった。
「あたしたちなら大丈夫!」
パティが元気よく言った。
だが、スヴィーナは黙って首を横に振った。
「……パティ。相手を見誤っちゃダメにゃ」
スヴィーナの声は、珍しく真剣だった。
「準備が必要ね」
クラリスが静かに言った。
「周辺国の温泉を解放して、力をつけるべきだわ」
ディアナはクラリスを見つめた。二人の視線が交わる。何か、通じ合うものがあるように見えた。
「……その方が賢明です」
ディアナは頷いた。
「周辺国も、苦しんでいます。どうか、彼らを救ってあげてください。そして力をつけて、この国に戻ってきてください」
彼女は首元のペンダントに手を当てた。銀色の小さな飾りが、微かに光った。
「これは、古い秘宝です。いずれ、あなた方の役に立つかもしれません」
(秘宝……?)
俺はペンダントを見つめた。だが、ディアナはそれ以上何も語らなかった。
俺は仲間たちの顔を見回した。スヴィーナ、パティ、クラリス。三人とも、無言で頷いた。
「……分かりました」
俺はディアナに向き直った。
「温泉国の解放を、俺たちの目標とします。まずは周辺国を回って、力をつけます」
ディアナは微笑んだ。だが、その笑みには悲しみが混じっていた。
「必ず、待っています」
彼女は窓の外を見つめた。封じられた大温泉の方角へ、そっと手を伸ばす。
◇
俺たちは王宮を出た。夕闇が街を包み始めている。
振り返ると、ディアナが窓から俺たちを見送っていた。
「……必ず、戻ろう」
俺は呟いた。
スヴィーナが俺の手をそっと握った。温かい感触が、俺の決意を支えてくれる。
俺たちは王都を後にして、周辺国への道を歩き始めた。




