第二十三話 砂漠の国と水源の呪い
窓の外の影が消えた。俺は窓に駆け寄り、外を確認する。月明かりに照らされた路地には誰もいない。だが、あの傷跡のある顔は確かに見えた。
「マックス?」
スヴィーナが心配そうに声をかけてくる。
「……奴はまだ近くにいる」
俺は窓を閉め、カーテンを引いた。布越しに月明かりが漏れる。
「今夜は交代で見張りを立てる。明け方には出発だ」
クラリスが頷き、パティは不安そうに自分の手を握りしめていた。
「あたしのせいで……」
「違う」
俺はパティの肩を掴んだ。
「お前一人の問題じゃない。俺たちは一緒に進むんだ」
パティは唇を噛み、それから小さく頷いた。
その夜、俺たちは交代で見張りを立てた。幸い、追跡者が宿に押し入ることはなかった。だが、夜明け前に窓の外を確認すると、路地の石畳に白い印が刻まれていた。奴隷商人の追跡印だ。
(まだ諦めていない……)
俺たちは荷物をまとめ、夜明けと同時に宿を出た。宿の主人に礼を言い、裏口から街道へ出る。背後を何度も振り返りながら、砂漠街道へと足を向けた。
砂漠の国への道は、七日間の長い旅だった。街道沿いには緑が少なく、乾いた風が顔を叩く。昼は灼熱、夜は凍える寒さ。水筒の水を大切に分け合いながら、俺たちは歩き続けた。
三日目の夜、野営地で焚火を囲んでいると、パティが後ろを振り返った。
「……誰もいない、よね?」
「大丈夫にゃ。あたしの耳なら気配は分かるにゃ」
スヴィーナが猫耳を動かして周囲を探る。だが、パティの不安は消えなかった。
「ずっと……追われてる気がする」
「追われているのは事実です」
クラリスが静かに言った。
「ですが、砂漠の国に入れば追跡者も手を出しにくいでしょう。あの国は外部の争いを嫌いますから」
「そうか……」
パティは少し安心したようだった。だが、俺は完全には油断できなかった。奴隷商人の執念は深い。
七日目の夕暮れ、ようやくソラリスオアシス首長国――通称『砂漠の国』のオアシス都市が見えてきた。砂漠の中に突然現れた緑のオアシス。水面が夕日に染まり、赤銅色に輝いている。門の両脇には白い石造りの塔が立ち、門番が槍を構えて立っていた。
「止まれ。何者だ」
門番が槍を向けてくる。俺は両手を上げて敵意がないことを示した。
「旅の者です。温泉を解放しに来ました」
門番の目が鋭くなった。
「……温泉を解放しに来た者か」
「そうです」
「ならば、神官たちが待っている。広場へ案内しよう」
門番は槍を下ろし、門を開けた。俺たちは都市の中へ入る。白い石造りの建物が立ち並び、路地には水路が流れていた。水の音が心地よく響く。だが、道行く人々の視線は冷たかった。
「また異端者か……」
「温泉を解放するなど、愚か者め」
囁き声が聞こえる。スヴィーナが耳を伏せ、パティは俺の袖を掴んだ。
「マックス……なんか、嫌な感じ」
「大丈夫だ」
俺はそう言ったが、胸の奥に不安が広がっていた。
広場に着くと、白い神官服を着た男が待っていた。年老いた男で、深い皺が刻まれた顔には厳しい表情が浮かんでいる。手には古い杖を持ち、周囲には同じ神官服の若者たちが控えていた。
「温泉を解放しに来た者か」
神官の声は低く、重い。
「はい。俺はマックスといいます。温泉神から八十八か国の温泉を解放する使命を受けました」
「温泉神……」
神官は眉をひそめた。
「我々の温泉は神聖な水源だ。古くから、この水源には呪いがかけられていると伝えられている。封印を解けば、水源が枯れ、国に災いが訪れる。だからこそ、この封印を守ることが神の意志なのだ」
「違います」
俺は一歩前に出た。
「温泉を解放すれば、水は増えます。他の国でも――」
「黙れ!」
神官が杖を地面に叩きつけた。乾いた音が広場に響く。
「異端者の戯言を聞く耳は持たぬ! 我々の信仰を汚すな!」
周囲の神官たちも杖を構える。都市の民が集まり始め、不安そうに俺たちを見つめていた。
「待ってください」
クラリスが前に出た。
「古文書を調べさせてください。温泉と水源の関係について、記録があるはずです」
神官はクラリスを睨んだ。
「……よかろう。だが、異端の書を持ち出すことは許さぬ」
「図書館で閲覧するだけで構いません」
クラリスは冷静に答えた。神官は渋々頷き、若い神官に図書館への案内を命じた。
俺たちは神官の館で待つことになった。
石造りの部屋は涼しく、壁には古い装飾が施されている。その中に、見覚えのある紋章があった。美人国の紋章だ。
スヴィーナがその紋章を見て、息を呑んだ。
「……にゃ」
「どうした?」
俺が声をかけると、スヴィーナは首を振った。
「な、なんでもないにゃ」
だが、その手は震えていた。パティが心配そうにスヴィーナの手を握る。
「大丈夫? 顔色悪いよ」
「大丈夫にゃ。ちょっと……暑かっただけにゃ」
スヴィーナは無理に笑ったが、その目は紋章から離れなかった。
(あの紋章に、何か意味があるのか……?)
俺は疑問を抱いたが、今は温泉解放が先だ。
数刻後、クラリスが古文書を抱えて戻ってきた。
「見つかりました」
クラリスは古文書を開く。羊皮紙の匂いと埃が舞い上がった。
「この記録によれば、温泉は地下水脈と繋がっており、封印を解くことで水脈が活性化すると書かれています」
神官は古文書を睨んだ。
「これは異端の書だ! 信じるに値しない!」
「では、なぜ図書館に保管されているのですか?」
クラリスの問いに、神官は言葉に詰まった。
その時、奥から別の老人が現れた。深い皺と白い髭を持つ、神官よりもさらに年老いた男だ。杖をつきながらゆっくりと歩いてくる。
「長老……」
神官たちが頭を下げた。長老は俺たちをじっと見つめ、それから口を開いた。
「試しに解放してみよ」
「長老! それは――」
「黙れ」
長老の声は静かだが、重い。神官は口を閉じた。
「失敗すれば、お前たちの命はない。だが、成功すれば……水源が豊かになるのであれば、私は認めよう」
長老の目は鋭く、俺を見据えていた。
「どうする、若者よ」
俺は拳を握りしめた。手が震える。失敗すれば、俺たちは殺される。だが、ここで逃げるわけにはいかない。
「……やります」
「マックス!」
スヴィーナが俺の腕を掴んだ。
「大丈夫にゃ? 失敗したら――」
「大丈夫だ」
俺はスヴィーナの手を握り返した。
「俺たちなら、できる」
パティとクラリスも頷いた。
「あたしも一緒に行く」
「私も」
長老は満足そうに頷いた。
「では、明日の朝、砂漠の奥の温泉へ案内しよう」
◇
その夜、俺たちは神官の館に泊まった。
部屋の窓から、砂漠の夜空が見える。星が無数に輝き、冷たい風が吹き込んでくる。昼の灼熱が嘘のように、夜は凍えるほど寒かった。
俺は窓辺に座り、星空を見上げていた。
「マックス」
スヴィーナが隣に座った。猫耳が俺の肩に触れる。
「失敗したら……どうなるにゃ?」
「……分からない」
正直に答えた。スヴィーナは俺の手を握った。
「怖いにゃ」
「俺も怖い」
俺はスヴィーナの手を握り返した。
「でも、やるしかない」
「……うん」
スヴィーナは俺の肩に頭を預けた。温かい体温が伝わってくる。
「あたしは、マックスを信じてるにゃ」
その言葉が、胸に沁みた。
◇
翌朝、長老に案内されて砂漠の奥へ向かった。ラクダに乗り、砂丘を越えていく。太陽が容赦なく照りつけ、汗が止まらない。水筒の水を少しずつ飲みながら、俺たちは進み続けた。
昼過ぎ、砂漠の真ん中に古い石造りの遺跡が見えた。
「あれが、封印された温泉だ」
長老が指差す。
遺跡の中央には、巨大な石板が置かれていた。石板には複雑な文様が刻まれ、魔力の気配が漂っている。
「封印を解くのだ」
長老が言った。
俺は石板の前に立ち、首にかけた青い勾玉を握りしめた。勾玉が温かくなる。温泉神の力が流れ込んでくるのを感じた。
「頼む……」
俺は勾玉を掲げた。光が石板を包み込む。文様が輝き、封印が解けていく音がした。
ゴゴゴゴゴ……地面が揺れた。石板が砕け、その下から豊かな湯が湧き出した。硫黄の匂いが広がり、湯気が砂漠の空へ昇っていく。
「成功した……!」
パティが叫んだ。スヴィーナとクラリスも安堵の表情を浮かべている。
長老は湯を手ですくい、匂いを嗅いだ。
「……確かに、温泉だ」
そして、遠くのオアシスを見つめた。
「水面が……上がっている」
オアシスの水量が、目に見えて増えていた。都市へ続く水路にも、豊かな水が流れ始めている。
「本当だ……水源が豊かになった……!」
長老の声が震えていた。
だが――。
都市に戻ると、神官が待ち構えていた。
「これは偶然だ!」
神官が叫んだ。
「たまたま地下水脈が動いただけだ! 温泉を解放したからではない!」
「何を言って――」
「黙れ! 異端者め! 我々の信仰を汚すな!」
神官は杖を振り上げ、俺たちを睨みつけた。周囲の神官たちも同じように杖を構える。
だが、都市の民は違った。
「水が増えた……!」
「オアシスが豊かになった!」
「温泉だ! 温泉が戻った!」
歓声が上がる。民たちは喜び、抱き合い、涙を流していた。だが、神官は頑なに認めようとしなかった。
「偶然だ……偶然に過ぎぬ……」
神官は震える声でそう繰り返し、館の奥へ消えていった。
長老は深いため息をついた。
「……すまない。信仰とは、時に論理を超える」
「いえ……」
俺は力なく答えた。
成功したのに、認められない。この無力感が、胸に重く沈んだ。
俺たちは都市を後にした。
砂漠街道を歩きながら、スヴィーナが慰めるように言った。
「次の国では、歓迎されるかもにゃ」
「……そうだな」
俺はそう答えたが、胸の奥のわだかまりは消えなかった。
クラリスが静かに言った。
「信仰は、論理では動かせません。それもまた、人の在り方です」
「分かってる……分かってるけど……」
俺は拳を握りしめた。
パティが俺の手を握った。
「でも、あたしたちは信じてるよ。マックスがやってることは、正しいって」
その言葉が、少しだけ胸の重さを和らげた。
夕暮れの砂漠街道を、四人で歩き続ける。
遠くに、次の国の山並みが見えた。




