第十五話 商業都市と美人国の紋章
宿場町の食堂には、朝の光が差し込んでいた。
窓際のテーブルに座る商人たちが、パンを齧りながら何やら話し込んでいる。焼きたてのパンの匂いが、室内に漂っていた。
俺は階段を降りながら、昨夜の三人の男たちの姿を探した。だが、どこにもいない。
宿の主人に尋ねても、「夜明け前に出て行った」と言うだけだった。
「……行ったのか」
俺は呟いた。
スヴィーナとパティが隣に立っている。パティの尻尾が、まだ少し緊張で揺れていた。
「追いかけてきたわけじゃなかったのかもしれないわね」
スヴィーナが言った。だが、その声には確信がない。
俺たちは朝食を済ませ、宿を出た。次の目的地は商業都市だ。街道沿いに三日ほど歩けば着く。
宿場町の門を抜けると、街道が真っ直ぐ続いている。両脇には麦畑が広がり、風が穂を揺らしていた。朝露が草葉に残り、陽光を反射してきらきらと光っている。
「次はどんな温泉があるのかしら」
スヴィーナが尋ねた。彼女の猫耳が、風に揺れている。
「商業都市には温泉はないらしい。その先の国に、封印された温泉があるって聞いた」
俺は答えた。宿場町の主人が教えてくれた情報だ。
パティが首を傾げた。
「じゃあ、商業都市では何をするの?」
「補給だ。次の国までの食料と、装備を整える」
俺は背負った荷物を確認した。村人からもらった食料は、あと二日分しかない。足りない分は、道中で採れる野草などで補うしかない。
三日間、俺たちは黙々と歩いた。
街道は整備されているが、日差しが強く、足が痛む。夜は野宿し、焚き火を囲んで食事をした。
パティが採ってきた野草を、スヴィーナが器用に調理する。火の匂いと、煮えた野草の香りが、夜の森に広がる。
三日目の夕刻、ようやく商業都市の城門が見えた。
高い石壁が、夕日を受けて赤く染まっている。門の両脇には衛兵が立ち、行き交う商人たちを見張っていた。
俺たちが城門に近づくと、衛兵の一人が目を見開いた。
「お前たち……もしかして、温泉を解放してる三人組か?」
俺は驚いて立ち止まった。
「……どうして知ってる?」
「噂だよ。街道沿いの村を助けて回ってるって、商人たちが話してた」
衛兵は笑った。
「中の市場でも、お前たちの話題で持ちきりだ。商人ってのは噂好きでな」
(噂が……こんなに広がってるのか)
俺は胸の中で呟いた。責任の重さが、じわりと肩に乗る。
「さあ、入れ。宿なら市場の奥にいくつかある」
衛兵が門を開けた。
城壁の内側から、市場の喧騒が聞こえてくる。商人たちの声が重なり合い、波のように押し寄せる。香辛料の匂いと、焼き菓子の甘い香りが、風に乗って漂ってきた。
俺たちは城門をくぐった。
石畳の道が続き、両脇に露店が並んでいる。色とりどりの布地が風に揺れ、金属器が陽光を反射している。
商人たちが俺たちを見て、ひそひそと囁き合っている。
「あれが……」
「本当に三人なのね」
「猫耳と犬耳の子が一緒だって聞いたけど」
パティが尻尾を丸めた。スヴィーナが彼女の肩に手を置く。
「気にしないで。悪い噂じゃないわ」
だが、スヴィーナの耳も、少し伏せている。
俺たちは市場の中心広場に出た。
噴水が水を吹き上げ、その周りに商人たちが店を広げている。果物、布地、香辛料、武器、様々な品が並んでいた。
「おお、あなたたちか!」
突然、声がかかった。振り返ると、豪華な服を着た商人が駆け寄ってくる。
彼の胸には、見覚えのある紋章が刺繍されている。銀色の糸で編まれた、優雅な曲線の紋章だ。
「ベルフィーネ王国――通称『美人国』から来た商人です。あなたたちのおかげで、我が国は本当に助かりました」
商人は深々と頭を下げた。
「温泉が復活してから、観光客が増えて、経済が潤っているんです。本当に感謝しています」
商人は背負っていた荷物から、大きな布を取り出した。広げると、そこには美人国の紋章が大きく刺繍されている。銀糸と金糸が複雑に絡み合い、月と星を象った紋章だ。布地は上質な絹で、光を受けて柔らかく輝いている。
「これは我が国の……」
商人の言葉が途切れた。
俺は隣を見た。
スヴィーナが、顔を背けている。
彼女の猫耳が、ぴたりと頭に張り付いている。尻尾が硬直し、震えていた。呼吸が浅く、早い。
「スヴィーナ?」
俺は声をかけた。だが、彼女は答えない。ただ、紋章から目を逸らし続けている。
「……どうした?」
商人は気づかず、布を畳んだ。
「これは感謝の印です。どうか受け取ってください」
「あ、ああ……ありがとう」
俺は布を受け取った。だが、スヴィーナの様子が気になって、商人の言葉が耳に入らない。
商人は満足そうに頷き、去っていった。
広場に、俺たち三人だけが残される。
「……スヴィーナ」
俺は彼女の肩に手を置いた。彼女が小さく震えている。
「何でもないわ」
スヴィーナは顔を上げた。だが、その瞳には何か……言葉にできない感情が浮かんでいる。
「本当に?」
パティが心配そうに尻尾を揺らした。
「……本当よ」
スヴィーナは微笑んだ。だが、その笑みは、どこか遠い。
俺は何も言えなかった。彼女の過去に、踏み込んでいいのかわからない。
沈黙が、三人の間に広がった。噴水の水音だけが、静かに響いている。
「……宿を探しましょう」
スヴィーナが先に歩き出した。俺とパティは、顔を見合わせてから、彼女の後を追った。
◇
宿は市場の奥にあった。二階建ての木造で、一階が食堂になっている。俺たちは部屋を取り、夕食を済ませた。
部屋に戻ると、スヴィーナは窓辺に立っていた。月が昇り始め、その光が彼女の銀髪を照らしている。
「……ねえ、スヴィーナ」
パティが声をかけた。
「何か隠してる? あたし、心配なんだけど」
スヴィーナは振り返らない。ただ、月を見つめている。
「……いつか話すわ」
彼女の声は、小さかった。
「いつか?」
パティの尻尾が、不安で揺れている。
「今じゃないの」
スヴィーナは窓に手を置いた。ガラスの冷たさが、彼女の掌に沁みているだろう。
俺は言葉を探した。何か言うべきだと思った。だが、何を言えばいいのかわからない。
結局、俺は何も言えなかった。
夜が更けていく。パティが先に寝息を立て始めた。スヴィーナは窓辺に立ち続けている。
俺は天井を見つめた。木の梁が、月光を受けて浮かび上がっている。
(俺は……仲間のことを、本当に理解しているのか?)
◇
翌朝、俺たちは宿を出た。
市場で旅の食料を買い揃える。朝の市場は活気に満ちている。商人たちが朝食を売り、焼きたてのパンの匂いが漂っていた。
スヴィーナが、ある店の前で足を止めた。そこには美人国の商人が店を広げている。
彼女はその店を避けるように、別の道を選んだ。
俺はそれに気づいた。だが、何も言わなかった。
「次はどこに行くの?」
パティが明るく尋ねた。彼女の声が、朝の緊張を和らげる。
「東の国だ。そこに封印された温泉があるらしい」
俺は答えた。パティが嬉しそうに尻尾を振る。
「また温泉に入れるね!」
スヴィーナが小さく笑った。その笑みは、昨夜よりは自然だった。
俺たちは城門を出た。
街道が、東へ真っ直ぐ続いている。朝日が背中を照らし、影が長く伸びていた。
スヴィーナが後ろを振り返った。商業都市の城壁が、朝もやの中に霞んでいる。
彼女が何を見ているのか、俺にはわからない。だが、いつか……いつか彼女が話してくれる日が来るだろう。
俺はそう信じて、前を向いた。




