第十四話 噂の広がりと追跡者の影
木々の間から現れたのは、人間だった。
薬草師の老人が先頭に立ち、その後ろに村人たちが続いている。松明の明かりが揺れ、彼らの影が木の幹に長く伸びていた。
マックスは湯の中で身構えたまま、勾玉を握る手に力を込めた。スヴィーナの猫耳がぴんと立ち、パティの犬耳は不安そうに伏せている。
「待たれよ」
薬草師が両手を上げた。松明の光が彼の皺だらけの顔を照らす。
「敵ではない。礼を言いに来たのだ」
マックスは警戒を解かず、老人を見つめた。
村人たちは松明を地面に突き立て、手に布の包みを抱えている。焼いたパンの香ばしい匂いと、干し肉の塩気が夜の空気に混じった。
「温泉を復活させてくれた恩に報いたい。村の者たちが、どうしてもと言うので」
薬草師がそう言うと、村人たちが一斉に頭を下げた。
マックスは湯から上がり、岸に置いた服に手を伸ばす。冷たい夜気が濡れた肌を撫でた。
「……礼には及ばない」
マックスがそう答えると、村人の一人が前に出た。中年の女性で、手に布を抱えている。
「これを受け取ってください。旅の役に立つはずです」
彼女は布の包みを差し出した。中には焼きたてのパン、干し肉、それに厚手の布が入っている。
マックスは服を着ながら、村人たちの顔を見た。皆、温泉の復活を心から喜んでいる。
「……ありがたく受け取る」
マックスがそう言うと、村人たちの顔がぱっと明るくなった。スヴィーナとパティも湯から上がり、服を羽織る。パティの尻尾が嬉しそうに揺れていた。
村人たちは松明を手に、森へと帰っていった。
その背中を見送りながら、マックスは湯気の立ち上る温泉を見つめた。
(温泉が復活したことは、もう村中に伝わっているのか……)
◇
森を出たのは、翌朝だった。
街道は商人の馬車と旅人で賑わっていた。マックスたちは八日間かけて、商業都市へ向かう街道沿いの宿場町へと歩いた。
道中、村々で温泉復活の噂を耳にした。「三人組が魔物を倒して温泉を解放している」という話が、街道沿いに広がっているらしい。
八日目の夕暮れ、宿場町が見えてきた。
木造の建物が立ち並び、通りには商人の屋台が並んでいる。馬車の車輪が石畳を叩く音、商人の呼び声、酒場から漏れる笑い声。町全体が活気に満ちていた。
「にゃあ、賑やかな町ね」
スヴィーナが耳をぴくぴくと動かした。パティも尻尾を揺らしながら、屋台の食べ物を見つめている。
マックスは町の入口にある宿を見つけ、中に入った。
木の扉を開けると、カウンターの向こうに中年の男が立っていた。宿の主人らしい。
「いらっしゃい。部屋をお探しで……」
主人がマックスたちを見た瞬間、目を見開いた。
「もしや、あなた方は……猫耳と犬耳の娘を連れた、温泉を解放して回っている噂の三人組では?」
マックスは少し驚いた。スヴィーナとパティも顔を見合わせる。
「……ああ」
マックスが答えると、主人の顔がぱっと明るくなった。
「これはこれは! 噂は聞いておりました。どうぞ、部屋をご用意します。食事もサービスさせていただきます!」
主人は興奮した様子で部屋の鍵を取り出し、マックスたちを二階へと案内した。
部屋は清潔で、窓から町の通りが見える。
「ゆっくりお休みください。食事の準備ができたら呼びに参ります」
主人はそう言って部屋を出ていった。
マックスは窓から町を見下ろした。通りを行き交う人々、屋台の明かり、遠くから聞こえる笑い声。
「マックス、あたしたち有名になってるのかな?」
パティが嬉しそうに尻尾を揺らした。スヴィーナは窓際に座り、町を眺めている。
「……そうみたいだな」
マックスは少し複雑な気持ちだった。噂が広がることは、助けを求める人々に希望を与える。だが同時に、敵にも居場所を知られることになる。
◇
夕食は一階の食堂で取った。
木のテーブルが並び、旅人や商人が食事をしている。シチューの湯気、焼き魚の香ばしい匂い、エールの酸っぱい香り。
マックスたちは隅のテーブルに座り、主人が運んできた料理に手をつけた。
パティが嬉しそうにスープを飲んでいる。スヴィーナはパンを小さくちぎりながら、食堂を見回していた。
その時、マックスは視線を感じた。
食堂の奥、壁際のテーブルに三人の男が座っている。旅装束だが、どこか不自然だ。視線がこちらに向いている。
マックスは首筋に緊張が走るのを感じた。
「にゃ……マックス」
スヴィーナが小声で囁いた。彼女の猫耳が男たちの方向に向いている。
「あの三人、さっきからこっちを見てるわ」
マックスはスプーンを握る手に力を込めた。男たちは視線を逸らさない。
「……奴隷商人の手下かもしれない」
スヴィーナの声が低くなった。
パティの手が止まり、スープの入った器を見つめたまま動かない。彼女の尻尾が丸まり、小刻みに震えている。
マックスは男たちを一瞥し、食事を続けた。だが、喉を通る食べ物の味がしない。
(俺たちを……追っているのか?)
食事を終え、マックスたちは部屋に戻った。
パティは尻尾を丸めたまま、ベッドに座っている。スヴィーナが彼女の隣に座り、頭を撫でた。
「大丈夫よ、パティ」
だが、パティの震えは止まらない。
マックスは窓辺に立ち、町の明かりを見下ろした。通りを歩く人々の影が、松明の光で長く伸びている。
(俺が……二人を危険に巻き込んでいるのかもしれない)
マックスは窓枠に手を置いた。冷たい木の感触が、掌に沁みる。
「……お前たちを危険に巻き込んでいるのかもしれない」
マックスが呟くと、スヴィーナが立ち上がった。
「何を言ってるの、マックス」
彼女はマックスの背中を見つめた。
「私たちは自分で選んで一緒にいるのよ」
パティも震えながら立ち上がった。
「ご主人様……」
彼女は口ごもり、それからゆっくりと続けた。
「……マックス」
マックスは振り返った。パティが不安そうに尻尾を揺らしている。
「マックスと一緒がいい。あたし、そう思ってる」
マックスは二人を見た。スヴィーナが微笑み、パティが小さく頷く。
マックスは何も言えなかった。ただ、窓の外の町を見つめた。
夜が更けていく。町の明かりが一つ、また一つと消えていく。
マックスは眠れず、窓辺に立ち続けた。
翌朝、食堂に降りると、あの三人の男たちは姿を消していた。
だが、マックスの胸の中に残る不安は、消えなかった。




