第21章 黎明の岩漿
灯かりさえ無い世界。暗闇が全てを統一するそこには如何にも古色蒼然たる苔が壁を覆い尽くし、湿ってぬかるんだ空気が鼻に触れる。決して居心地の良いものでは無い。彼女は身を置き上がらせ、周囲を見渡した。一方は鉄格子、三方は苔の壁だ。…行き場が無い!この不条理さはグレゴールを髣髴とさせた、しかし彼女には全く以て眠る以前までの記憶が無かった。
そもそもワタシとは誰なのだろうか、そんな根本までもが真面目に分からない。両手をじめっとした石畳の床に下ろして、腰を据えた。頭が痛い。彼女はどうする事も出来ない苦渋に追われた気がして、聊か不安が立ち込めた。
どうやら理屈や理念は通らなそうである。流刑にされた罪人のような感覚が、不意にも顕現し始めてきたが、全くそれへの心当たりがない。自分は好餌か何かであろうか?囮の一種として捕らえられたとしても、一体何の為に?…倫理未満の行動には、何かしらの目的が付随している事がしばしばある、推察しても無駄にはならないであろう――彼女に思わせた一つの考えが、深い夢へと誘った。
―――ひとたび失われた好機は、天の神ユピテルでさえ取り戻せない。
しかし、ワタシから一体何の好機が奪われたというのだ?…自分自己と言う存在に問答してみても、答えは導かれない。全く記憶が無いのだ。ある程度の普遍経験に基づいた常識は知り得ていても、自らが歩いた軌跡が自ずと嚮導される訳ではない。訳が分からなかった。記憶を消されたのだろうか?記憶喪失にされたのか?…彼女は往々にして部屋の中を徘徊した。そして思索した。…何も導かれなかった。
するとどうだ、徘徊している際に、闇の中に紛れ込んでいて見えなかった彼女の剣が石畳の床の上に置かれていたのである。彼女は手に取った。一切の錆は無く、新品同然であった。幾多もの戦いを経て、確かに血濡れたりしていた刀身が新品に為っている事柄から推測される事実は必然的であった。
行き場のない苦しみ。それにずっと悩まされる彼女の苦しみ。其れが解き放たれるのは何時の日か。
そう考えた後、唐突にしてモーターの轟音を上げて鉄格子を破る存在が現れた。玉鋼の外殻を覆い、頭部のセンサーは彼女を感知した。両腕に備え付けられた電動ノコギリの刃が彼女を蝕んでいた壁をも容易く破壊してしまう。
彼女は咄嗟に剣を構えた。行き場のない苦しみが光背となって、彼女を後押しした。蛙を睨む蛇のように、突如現れた存在は彼女に向けて電動ノコギリを差し向けた。狼狽する様子を見せない彼女に対して、一種の制裁を加えるようにして―――。
彼女は懼れることを知らず、実存を確立させた。死は尊さの顕れ。其れは歯向かう神への叛逆者。光陰を穿つ黎明の展翅板。その板の上に飾られるのは〈運命〉と称された標本―――。
「…称された事も無い運命に、首肯なし。……抗ってこそ、世界の本質!」
彼女はモーターの音に呆気なくかき消されてしまう程小さな声で呟いた。其処には思索に思索を重ねた、彼女なりの哲学があった。――彼女は携えた。剣と言う名の運命を。剣と言う名の反逆を。
記憶の無い軌跡は〈ゼロ〉の夢。適わぬ永劫は雨露となって落ちたのだ――。その髪の下から向けられた視線は、全てを射貫く矢の如し。黎明の音に呼応する意思。違わぬ永遠の意思。それを具現化させるがため、彼女は柄を持った。うめき、悲しみ、なげくその魂を、剣は貫いたのだ。
破壊に、幸あれ。築く運命に、幸あれ!その世界に与える救済的な意思に、幸あれ!!
「……アンティキティラ型サーカムフレックス体、セーレン・オービエ・キェルケゴール!お前の願う神の前の単独者とは何だ!……神に、運命に、そして世界に力を与えたのは人間だ!…人間と言う名の、叛逆者だ!!」




