9話 黒髪と白髪
私に覆い被さるように膝立ちをしている、インキュバスだと名乗った男の子は舌舐めずりをする。
「ちょ、ちょっと! あの……!」
「はは。怯えてる?」
悪戯に微笑む彼の顔は嫌に綺麗だ。確かにインキュバスというのは、その顔を存分に生かして女性を誑かしているというのはよく聞く話だけれども。
「俺のこと、怖い?」
訊かれた刹那。瞼の裏に、同じ光景が浮かんだ。
——あれ?
このやり取りを何処かでしたことがあるような気がする。
「……怖くは、ない……かも……」
襲われかけて怖くないなんて、そんなわけがないのに。彼の行動が冗談であるということを、私は何故か確信しているのだ。
男の子は目を大きく見開き、しばたたかせた。それから肩を竦めて鼻で笑う。
「……さすが、二回目ともなると……」
「何やってんだ!」
何かを言おうとした男の子の声と、知らない怒鳴り声が被さった瞬間。鈍い音が響いたと共に、私に覆い被さっていたはずの彼が目の前から姿を消した。
「ったく、お前は目を離すとすぐ…………」
男の子の代わりに私の目の前に立つのは、白髪の長身の男性だった。瞳が鮮やかに赤く、鋭い。服装は男の子と同じように全身真っ黒い。
これまた見目の良い男性だ。
そろそろ私の美的感覚が狂い出しそう。
「…………え?」
なんて呑気なことを考えている私とは裏腹に、白髪の男性は目を丸くさせていた。
もう大体、次に出てくる言葉は分かる。
「……クレア、様……?」
——あ。この人は私を様付けで呼ぶんだ。
彼の唇からも、男の子と同じように鋭い犬歯が覗いていた。
「痛ぇな! 蹴飛ばすなよ!」
右隣から怒号が聞こえ、私は視線だけをそちらに向けた。先程まで私に覆い被さっていた男の子が腰を手で押さえ、涙目で白髪の男性を見上げている。
「お前が勝手にレイヴァン様の家に入り込むからだろ! 扉まで壊して、どうすんだ! それにお前、クレア様になんてことを……!」
「クレアには何もしてねえし、玄関は直せるから良いだろ! レイが居留守使ってるって思ったんだよ! あの野郎、扉ガッチガチに固めやがって……って思ったんだけど……」
二人の目線が、ゆっくりと私へと向く。その瞳には驚愕が滲んでいるように見えた。
「……なぁ、あんた。名前はクレアで合ってるよな? 俺がそう呼んだら否定しなかったし」
「……は……はい」
素直に言うこともなかったのだろうけど、わざわざ嘘を吐く理由も見当たらず、私は正直に頷く。
男の子は頬杖をつき、私の顔をじっと見詰めた。
「ごめんな、怖がらせて。冗談のつもりだったんだ。俺、そもそもインキュバスなんかじゃないしね」
「えっ」
「お前、そんなしょうもない嘘吐いたのか。またレイヴァン様に灼かれるぞ」
「今回は……言い分があんの。あの単細胞が聞いてくれるかは分からないけどな」
男の子は私の顔を一瞥し、すぐに白髪の男性を見上げた。
「なあ、どう思う?」
「どうも何も……とりあえず、玄関直すぞ。レイヴァン様が帰ってくる前に……」
「もう帰ってきてるんだけどね」
黒髪の男の子と白髪の男性が同時に体を跳ね上がらせた。白髪の男性はすぐさま床に片膝を突いては頭を下げ、黒髪の男の子は手をふらふらと振りつつ口元を引き攣らせる。
「よっ。お帰り、レイ。邪魔してんぜー」
「……レイヴァン様。お帰りなさいませ」
「お前達はどうでもいいんだけど。……ただいま、クレア」
いつの間にか白髪の男性の背後に立っていた魔王は、私に向かって微笑んだ。
それは怖くもなんともない微笑みだ。なのに私の肌は、ピリピリと突っ張るように痛み出す。
「殺気ダダ漏れでおっかねぇぞー、魔王様」
「クロ。さっさと玄関直して。どうせ壊したのお前でしょ。結界も張り直してね」
「えー!?」
「えーじゃない。三分以内にね。ヴィクトルは……クレアにお茶でも淹れて」
「承知致しました。レイヴァン様」
「あ、クロ。玄関直したら買い物したもの整理しておいて」
「はぁ!? さすがにそれは自分でやれよ!」
「めんどくさいんだもん」
「お前ねぇ……。なぁクレア。こいつ、こんな奴だぜ。逃げ出すなら今のうちだぞ。逃げるの手伝おうか?」
眼前で繰り広げられる、なんとも賑やかな会話をぼーっと聞いていた私の目の前に黒髪の男の子が——クロと呼ばれていたか——しゃがみ込んだ。彼のふっくらとした厚みのある唇がつり上がると、魔王はわざとらしいほどにため息を吐く。
「躾がなってないんじゃないの。ヴィクトル」
「申し訳ありません……。おい、余計なこと言わないでさっさと玄関直して来い!」
「はいはい。俺のお茶もよろしくなー、ヴィル」
「えー……。なに、長居する気?」
クロと呼ばれた男の子が立ち上がると、魔王は彼のふくらはぎを軽く蹴飛ばす。「痛いっての!」と声を張り上げつつ、彼は玄関がある方向へと向かって行った。
魔王はまた短く息を吐いた後、私の目の前へと手を差し出す。
「ごめんねクレア、うるさくて。白い髪の方……ヴィクトルって言うんだけど、お茶を淹れるのが上手なんだ。クレアも良かったら一緒に飲まない? ……ね。ヴィクトル。誠心誠意、最後の一滴まで手抜きしないで淹れるもんね」
「……もちろんです。レイヴァン様」
ヴィクトルと呼ばれた白髪の男性は片膝を突いたまま、再び魔王に向かって頭を下げた。
そろそろ頭痛が起きそうなほど、私の頭は混乱している。昨日からずっとそうだ。
「ところでさ、ヴィクトル」
「はい。レイヴァン様」
「なんでクレアは俺の部屋で座り込んでて、クロはその隣で倒れ込んでたわけ?」
魔王は私の隣に膝を折って座る。
「……えっと……」
「教えてくれるよね」
「…………クロが……その……クレア様を……押し倒してしまって……」
「なるほどね、分かった。今から百年くらいクロは使い物にならなくなるよ。良いよね」
「むろんです。監督不届きで申し訳ありません」
「…………ごめんね、クレア。怖かったね。ちょっと待っててね。今からアイツ……燃やしてくるから」
私の頭の上にまで魔王の手のひらが伸びたが、触れることなく止まる。
立ち上がった魔王の顔から笑顔は消えていて、彼は表情をピクリとも動かすことなく玄関の方へと向かって行った。
取り残された私とヴィクトルと呼ばれた男性はお互いの顔を見詰め合う。
「……クレア様。お茶をお淹れしますね。手土産を持参していたのですが……甘いものはお好きですか?」
ヴィクトルと呼ばれた男性は何事もなかったように私に向かって滑らかに腰を降り、爽やかに笑いかけた。
◇◇◇
——腹立たしい、なんて柔らかな言葉で済ませる気はない。
レイヴァンは目を眇めながら玄関へと向かう。
「クロ……クロヴィス。外に出ろ」
玄関のドアノブを手で押さえ、棒立ちになっている黒髪に声を掛ける。
「俺のこと百年は燃えクズにしてやるって話は聞こえてたぜ。ごめん、まじで悪かった。反省してる。でもクレアには指一本触れてない。これは本当」
「そういう話じゃない」
「クレアに訊いてみるといい。俺達の知ってるクレアなら、嘘は吐かないはずだからな」
「……クレアを怖がらせた。それだけでお前の罪はじゅうぶんだよ」
玄関の扉がレイヴァンの怒りに呼応するように、小刻みに揺れ始めた。
クロ——正式な名前をクロヴィスと言う。クロヴィスは頭を掻き、ドアノブから手を離す。レイヴァンが帰宅した際に折れていたそれは、元通りの形を取り戻していた。
「それはもっかい謝るよ。まずは俺の話を聞け。覚えているだろ? 俺が初めてクレアに会った日、全く同じ悪戯をクレアに仕掛けてレイに殺されかけたこと」
「覚えてる。死ぬまで忘れないし、死んだ後もお前を呪おうと思ってるよ」
「甘んじて受け入れるしかないなぁ。……代わりに良いこと教えてやるよ。初めて会った時はクレアは俺のことを怖がったけど、今のクレアは俺を怖がらなかった」
クロヴィスの瞳が細まる。
「肝が座ってる……とか、そういう顔じゃない。俺が冗談でやったことを知っているかのように、クレアは——微笑んでいた」
「……え?」
「微笑むっつーか、まあ目元は困惑してたよ。でも口元は笑ってた。複雑そうな顔。……だから案外、全く別人とは言い切れないかもな。あのクレアは」
玄関に置かれていた紙袋を持ち上げ、クロヴィスは鋭く尖った犬歯を剥き出しにして笑んだ。
「手土産だ。この間、食料買って来いって言われてたから、クレアの好きだったクッキー買ってきたんだ。偶然だけどな。……押し倒したというか上に座っただけだけど、あのクレアがどんな反応をするか見たかったんだ。試すような真似して本当にごめん」
「…………クロ……。お前は、どう思う……?」
示す言葉は、もちろん。
「まずは……レイ。お前、どうせ無理矢理あのクレアを連れ去ってきたんだろ。クレアは混乱しっぱなしだろうから……なんて説明するか考えろよ」
「……そう。無理矢理連れて来た……。説明もしなきゃいけないのは、分かってるんだけど……」
クロヴィスは吐息をもらし腕を組んだ。見上げてくる顔に、僅かに呆れが窺える。
「俺らはどうする? 帰っても良いけど」
「…………いや……。一緒に居て……」
「さっきまで俺のこと燃やそうとしてたくせによ。調子良いぜ、まったく。これじゃ魔王様じゃなくて仔犬だな。……ほら、行くぞ。ヴィルが美味い茶を淹れて待ってるはずだ」
身を翻したクロヴィスの背中を見詰めたが、足は動いてくれなかった。やがてレイヴァンの目線は彼の背中ではなく、自分の足元へと向く。
ため息混じりの「臆病者」という言葉と共に視界に入り込んできた指先に手を引かれ、レイヴァンはクレアが待つ部屋へと向かった。




