8話 インキュバス
結局——用意された朝食を全て平らげた。どれもこれも、本当に美味しかったのだ。
アーサー、バルド、ニーナ。三人は今も私との別れを悲しんでくれているかもしれないのに、私はなんて愚か者なんだろう。
私はテーブルの上の食器を見詰める。
——それとこれとは、一旦別の話だ。まずはせめて茶碗だけでも洗わなきゃ。
でも勝手に水場や食器棚に触れても良いのだろうか。
「聞いてみよう。……魔王、に……」
魔王に自分から話しかけるという覚悟を決め、私は魔王の部屋の前に立つ。扉をノックすると、すぐに扉が開いた。途端、何か草に似たような香りが広がる。
「クレア! ……ご飯、食べれた?」
眉を下げた魔王が私を見詰めている。その向こう側に見えている彼の部屋でまず目に入ったのは、床だった。
枯れ草のような色で、光を反射させない。細かく編み込まれているような、そんな模様をしている。
でもその床と魔王の服装の雰囲気が、どことなく合っているような気がした。そしてこの香りも、落ち着く。
「あ。俺の部屋ね、畳って言って……草で編んである床なんだ。昨日の夜に模様替えしてみてさ。興味があったらクレアの部屋も畳に変えられるから、言ってね」
「タタミ? 良い匂い、ですね」
ぽろっと言葉があふれた。はっ、と口を手で覆ったが、これもまた時すでに遅し。キラキラと輝く瞳には私の顔が映っていた。
「クレアの部屋も変えておこうか?」
「あっ。い、いえ。それよりご飯、美味しかったです。本当に、すごく……。ご馳走様でした。それで、あの……」
お茶碗を洗いたい、と言葉を続けたかったのだが——。
「食べてくれたの!?」
魔王の大きな声が、言葉の続きを遮った。
「口に合った? 良かったぁ……! 俺は普段食事って摂らなくて、料理するのすごい久々でさ……あ、でも調理器具とかはちゃんと何回も洗ったから安心してね。野菜はかろうじて朝一で買えたから新鮮なやつだし、パン屋も開いててさ」
早口で、捲し立てるように魔王の口からは言葉が続く。
「この家の近くに街があるんだ。そこで買い物が出来るんだよ。今からまた買い物に行こうかなって思ってたんだけど、何か食べたいものあれば買ってくるから教えてね」
「いや……えっと……まず、あの……お茶碗を洗いたいんですけど……水場ってお借りしても大丈夫ですか……?」
「大丈夫大丈夫、俺がやっておくから。その後、俺ちょっと外に出てくるから。クレアはゆっくり休んでて」
「で、でも……」
「今日はとりあえず、ね。部屋に戻っても良いし、好きな部屋にいて良いからね」
魔王に促され続け、私は渋々部屋へと戻った。
◇◇◇
部屋に戻ってから一時間ほど経っただろうか。
あまりにも、やることがない。
「どうしよう……」
魔王を倒すぞと意気込んでいた私は、お腹がいっぱいになってからその姿を消した。心の奥底に潜り込んでしまったようで、なんとも情けない。
「決めた。……せめて、話をしよう」
魔王はやたらと私について詳しい。そして、会ったことがあるかのような口ぶりをしていた。それがずっと気になっていたのだ。
それが何故なのか。私と彼は一体どこで会ったというのか。教えてくれるか分からないが、せめて訊くだけ訊いてみよう。
階段を降り、魔王の部屋の扉をノックするが——返事がない。
「あれ。魔王、様ー……」
呼びかけてみても、物音の一つすら聞こえない。
「そういえば、出掛けるって言ってたっけ……」
私の視線が泳いだ。向かう先は、玄関の扉。
なんとも無防備に「ここから逃げてください」と言わんばかりにその姿を曝け出している。
——あれ。もしかして、逃げられる? こんなにあっさりと?
私の足は自然と玄関へと向かっていた。
「内鍵……ある……」
鍵を回すと、カチャッと解錠された音が聞こえた。ドアノブに手を掛け、押し回す。
扉はあっさりと——開くわけがなかった。何回押しても引いても横にスライドさせようとしても、扉はびくともしない。
「……閉じ込められてる……」
いわば監禁状態だ。私は肩を落とした。
魔王の目的がいまだに分からない。私がここに来てしたことは、ぐっすり寝て起きて美味しいご飯を作ってもらっただけ。一体、彼は何がしたくて私を連れて来たというのか。
買い物に行くと言っていたが果たして本当に帰ってくるのかは分からない。もしかして、私をこのままここに置き去りにして餓死させようとしている? ありえない話ではない。
だとしたら意地でもここから出なければ。
でもどうやって?
私の頭の中で何人かの私が会話をしていたが、玄関の扉がノックされる音で会話は止まった。
玄関の扉はガタガタと揺れ、ノックする音もだんだんと強まる。
「……レイ! 開けろ! 居るんだろ!? お前、どういうつもりだ! おい!」
全く聞いたことのない声が玄関の向こうから聞こえる。私の足は下がり、両手を胸の前で握り合わせる。手汗が滲んでいた。
「なんで扉にこんなに魔力込めてんだ……よっ!」
何かが壊れるような音が聞こえ、玄関の扉がゆっくりと開き始めた。私は咄嗟に——真隣にあった魔王の部屋へと入り込む。
「レイ! 出てこい! 家の場所も外観も変えやがって! 分かりにくいんだよ! つーかめちゃくちゃ狭くなってる……せっかく作った俺の部屋、残ってんのかよ。レイの部屋はどこになったんだ? おーい!」
先程まで私が食事を食べていた部屋の扉が開かれる音が聞こえる。
私は魔王の部屋の扉の前にしゃがみ込み、耳を澄ませた。だけどどうにも自分の心臓の音が煩くて、集中が出来ない。
「お前、魔王辞めたって噂流れてんぞ! どういうことか説明しろ! ……ここか!?」
声が近くなった。声の主が扉の前にいる。
——どうしよう。開けないで。
息を呑んだ瞬間、願いもむなしく扉が開いた。私は無様にも尻餅を突く。
「…………え……」
扉が開いた先に立っていたのは——男の子だった。
漆黒の短めの髪に、くすんだ薄い青色の瞳。艶のある黒っぽい服装で隠されているが、細身の体躯。
私は声で彼を男の子だと判断したが、顔と体付きだけで見ると中性的だ。
彼のぽっかりと開いた唇からは鋭い犬歯が覗く。
「……クレ……ア……?」
やがて彼の口から、そうこぼれた。
「……え……?」
「……クレア……なんで……? だって、クレアは……え? は……?」
まただ。また思考がぐちゃぐちゃに絡まる。
私はこの男の子に会うのはむろん初めてだ。彼の肌もまた、魔王と同じように人間離れした白さで、こんな顔立ちはバラデア王国では見かけたことがない。
「……クレア……」
なのに何故この男の子も、遠い昔からの友人のように私の名前を呼ぶの?
「……あの……貴方は、誰……? なんで、私のこと知ってるの……?」
「……へ? クレア、俺のこと……あ。いや……そっか。はー、なるほど。…………そういうことか」
男の子は顎に指を添え、頷いた。彼の目線が斜め上へとずれ、しばらく考え込むような様子を見せた後、また私へと戻ってくる。
「…………ねぇ。あんた、俺とは初めましてってことだな?」
「……え……? あっ、と……はい……」
「ふーん?」
男の子は私の足の上で膝立ちになり、私の顔を見下ろす。彼の長めの前髪がさらりと揺れた。
「ちょうど良かった。お腹空いてたんだよね」
彼がほくそ笑むと、尖る犬歯が白く鈍く光る。
「お腹……? と、というか……魔王様なら今は不在で……」
「魔王様、ねえ。報われないな。アイツにはレイヴァンって名前がある。そう呼んであげなよ」
「…………いや。あの、まず……貴方は、誰……なんですか? 魔王の、知り合い……?」
「知り合いか。そう言われると寂しいな。さながら、親友ってとこかな」
彼は目を細めた。逃げたいのに、私の目の前で膝立ちになっている彼によって憚られる。
「俺は……インキュバス。知っているだろ?」
「インキュ、バス……」
聞いたことがある。
インキュバスとは最上位魔物だ。女性を襲い、言葉に出来ないほど如何わしい行為で精力を吸い取るという——え?
「え?」
心と口から同じ疑問符が飛び出た。
インキュバスだと名乗った彼は私の上に跨っていて、彼は先程「お腹空いてたんだよね」と言っていたような。
これは、つまり——。
「はは、顔が真っ赤。……そういうこと。察しが良くて助かるね」
彼は片眉と片唇の端を吊り上げ、上着のボタンを一つだけ見せつけるように外した。




