7話 朝食
目が覚めるとすっかり空は明るくなっていた。朝の柔らかい日差しがカーテンの隙間から差し込み、部屋に一筋の明かりを浮かべている。
「今日はニーナと遊ぶんだっけ」
いつもと同じ部屋に、いつもの同じベッドの上。私は独り言を呟いた。
だけど何か違和感が——何か忘れているような。
「……魔王……」
呟く。
そうだ、魔王だ。魔王討伐に向かって、それから——。記憶が鮮明に甦り、私は体を起こした。
「そうだ……! ここ、私の家じゃない……!」
油断した。用意されていたベッドが私の家のベッドと全く同じ寝心地で、すっかり熟睡してしまっていた。間抜けにもほどがある。
大きくはあるが普通の家に見えるここは、あくまで魔王の家。見た目は違うけれども、魔王城のようなものなのだ。
慌ててベッドから降りると、ちょうど部屋の扉がノックされた。
「クレア、起きたの?」
少年でも大人でもない男性の声。魔王の声だ。
「……あ……えっと、はい……」
その声を聞くとやけに耳が落ち着き、私は素直に返事をしてしまった。
「そっか、おはよう。朝ご飯は食べれそう?」
「朝……ご飯……?」
「うん。と言ってもお店がまだあんまり開いてなくて、パンとスープになっちゃうんだけど。それでも良ければ、食べてほしいな。……あ、もちろん食べれそうだったらで大丈夫なんだけど……」
扉越しに会話をしていて魔王の表情を窺うことは出来ないはずなのに、何故か魔王が眉を下げている表情が想像出来た。
彼の声色が何かに怯えているような、何かに気を遣っているような、そんな声に聞こえたからかもしれない。
「……気が向いたら、一回部屋から出ておいで」
私を威圧するように声を張り上げるわけでもなく、彼は小さく呟いた。階段を降りる足音が聞こえ、やがてその音は小さくなり聞こえなくなる。
——分かっている。
彼は人間を襲う魔物の頂点——魔王だ。彼の本物の首を私が討ち取るべきである。そしてバラデア王国に持ち帰り、これで本当に安心になったよと声を張り上げるべきなのだ。
私はふぅ、と息を吐き、部屋の扉のドアノブへと手を掛けた。
そうだ。私がやらなきゃ。
階段を降りる。新築なのかなんなのか、どこを歩いても軋まない。
昨夜家中を案内されたから場所は覚えている。魔王の部屋とは別に、食事を取る部屋があると言っていたはずだ。
私はその部屋の前に立ち、ドアノブに手を掛けた。何度も深呼吸を繰り返す。
——落ち着け。私がやる。大丈夫、倒せる。
私は勢いをつけて扉を開いた。
「あ。おはよう、クレア。来てくれたんだね」
先ず目に入ったのは、むろん魔王の姿だったのだが、彼は不思議な衣服を身に纏っていた。
首元から足首までを覆う一枚の深緑色の長い布を、身体の前で重ね合わせ、腰には幅広の帯を巻いている。袖はゆったりと大きく、歩くたびに裾とともに揺れた。
魔王の見目の良い顔立ちにその不思議な衣服が似合っていて、絵画のような美しさすら感じる。
「お腹空いたでしょ。スープ温め直すから、座ってて」
「……へ……」
「好きなところに座って。それとも部屋で食べる? どっちでも良いからね。人間はちゃんと食べないと倒れちゃうから」
部屋の中を見渡す。どうやらキッチンのようだ。
キッチンの隣には食事の際に家族で囲うような大きめの四角いテーブルが置かれていて、椅子が四脚置いてある。
ここもまた掃除が行き届いた清潔感のある部屋だ。テーブルも私の顔が薄らと映り込むほどにピカピカに磨かれていた。
そのテーブルの中心には小さな茶色のカゴが置いてあり、その中には薄切りにされたパンが三切れ。
瓶詰めにされた赤色の液体——ジャムだろうか。それに、湯気が漂う艶々としたベーコンエッグも皿の上に盛られ、マグカップに入った茶色の飲み物が湯気を立てていた。
私は深く息を吸う。
パンの甘い香り、ベーコンエッグの香ばしい香り、茶色の飲み物が漂わせる花のような香り。全てが混ざり合って、それはまごうことなき朝の香りだった。
「と言っても、そっか。怪しい奴が作った料理なんて食べたくないよね。クレア、人差し指の先だけ……君の額に触っても良い? 君の賢者の力を少しだけ借りたいんだ」
「……賢者の力? 私の?」
「うん。君の力、少しだけ起こしてあげたくて。……触っても大丈夫?」
魔王は優しげに微笑んだ。
窓から差し込む光が彼の姿を照らし、桜鼠色の髪も新鮮な葉のような色の瞳も、昨夜見た色とはまた違う色に見える。
今はキラキラと輝いていて、暖かみすら感じた。
「どう……ぞ……」
見惚れてしまい、拒絶を忘れた。
ああ、私の馬鹿。
「ありがとう。……一瞬だからね」
とん、と魔王の人差し指が私の額に優しく触れ、すぐに離れた。昨夜は無許可に抱きついたりしてきたくせに、彼の倫理観はよく分からない。
「今呼び起こしたのは、クレアの中に眠っていた毒物の識別のスキルだよ。えっと……」
魔王は私から離れ、何かの扉——食料を保存する氷室だろうか——を開いた。そうしてすぐに私の元へとニコニコしながら戻ってくる。
「これ……知り合いの厄介者が家に置いて行ったんだ」
彼の指には小瓶がつままれていた。中には透明な液体が入っていて、小瓶が揺れるたびに液体も小さく波打つ。
「中の液体は……とある種族の嗜好品だけど、人間からしたら猛毒に値するものらしい。クレア、目を凝らしてこの液体を見詰めてみて」
見詰めてみて、と言われても。こんなのどう見ても水にしか見えない——はずだったのだが、だんだんとその液体が赤紫色に変色し、やがてそれは煮沸したように泡立ち始める。
「……え……!?」
「赤紫色っぽくなって、ぶくぶくしたでしょ? 目を瓶から逸らしてから、またこの瓶を見てみて」
目を逸らしてと言われ、なぜか私の目線は真っ先に魔王の顔へと動いた。目が合うと、彼は唇を結んで目を丸くさせる。小瓶の中で液体が動いたのか、ちゃぽん、という音が微かに聞こえた。
「そ……そろそろ、瓶……見てみて……」
「えっ。あ、はい」
再び小瓶を見る。小瓶の中身は、また透明な液体へと戻っていた。
「これは……」
「クレアに元々備わっていたスキルだよ。人間が摂取出来るものなのかどうか判断が出来る……すごく良い目だよね。集中して食べ物や液体を見詰めて、三秒くらい経っても色が変わらなければそれは人間にとっては無害なものっていうこと」
魔王はキッチン台に置かれていた鍋の蓋を開いた。鍋の中には数種類の野菜が入ったスープのようなものが入っていて、白い湯気を立てている。
「これ、見てみて。何も変わらないはずだよ」
スープを凝視する。三秒どころか十秒ほど見詰めてみたけれども、スープには特に何も変化も見られない。
それどころか——すごく、美味しそう。そういえばここ最近はちゃんとした食事を摂っていなかった。
私の腹の虫が、彼の問いに代わりに返事をする。咄嗟に腹を押さえ込んだが、時すでに遅し。
「せめてパンだけでも食べてみて。パンは俺が作ったものじゃなくて、買ってきたものだから」
魔王はスープを皿によそってテーブルの上へと並べた。
「俺は自分の部屋に居るから。何かあったら呼んでね」
微笑みつつ彼はそう言い、身を翻して部屋を出た。一人静かな部屋へ取り残された私は椅子へと腰掛ける。
「……美味しそう」
魔王を倒すぞと意気込んだ私の目の前には、魔王が作ってくれたという朝食がある。
彼が言う私のスキルが本物ならば、この食事達は人間に害を及ぼすものではなさそうだ。
そもそも何か毒物が入っていたら、私は私自身を治せる。
「……いただきます……」
パンを手に取る。まだほんのりと温かい。軽く引っ張ると、パンはふんわりと柔らかく千切れた。甘い香りが鼻孔をくすぐる。ほんの一口だけパンを口に運ぶと、なんだかとても懐かしい味がした。
私はこの味もきっと、知っているんだ。




