10話 本題
玄関から魔王とクロと呼ばれていた男の子の話し声が微かに聞こえてはくるけれども、話の内容まではさすがに聞き取れなかった。
私はキッチンで、ヴィクトルと呼ばれていた男性と体を並べている。
「クレア様……どうか座っていてください。俺がレイヴァン様に叱られるので……」
「い、いえ……! 座っているのも落ち着かないので、何か手伝わせてください。えっと、マグカップ……勝手に出しちゃって大丈夫でしょうか……」
「俺はいつも勝手に出してるので大丈夫だと思います。でも本当に……あの……」
私も彼に気を遣っているけど、彼も私に気を遣ってくれているようで、おどおどとした言葉遣いがキッチンに飛び交う。
「あ……。ならばクレア様。お好きなマグカップを選んでいただけませんか。それにクレア様のお茶をお淹れしますので」
「えっ?」
この家にマグカップは何種類かあるようだ。形から色から、それぞれ違う。全て魔王の趣味なのだろうか。
朝食を用意してくれた際に置かれていたマグカップは綺麗に洗われて食器棚に戻されていた。白地に淡いピンクの花模様が描かれている、可愛らしいマグカップ。
「じゃあ、このマグカップでお願いします。さっき魔王様が朝食を作ってくれて、その時もこのマグカップだったんですけど……一番可愛いなって思って」
「ふふ。承知致しました」
細まった赤色の瞳に安堵感を抱いた。この人はどうしてか、話しやすい。物腰が柔らかいからだろうか。それとも、魔王やクロと呼ばれていた男の子と比べると大人に見えるからなのだろうか。
「ただいまぁ」
キッチンの扉が開き、魔王と男の子が揃って入ってきた。男の子の手には紙袋がぶら下がっている。
「レイヴァン様……クロは……」
「……ああー……とりあえず、うん。燃やすのは保留。それよりヴィクトル、クレアに何させてるの」
「ヴィルにまで怒るなよ。マグカップ持ってるだけだろ、過保護すぎるって。……クレア。ちょっとこっちに来てくれ」
男の子に手招きされ、私は首を傾げつつもマグカップをキッチン台へ置いて彼に近寄る。
「えっと、まず……驚かせてごめんなさい。悪気は本当になかったんだ。でも、クレアからしたら吃驚はしたよな」
「まだ頭が高いよ」
私の前で頭を下げた男の子の頭を、魔王は自身の手で押さえ付けて更に床に向かって押し込んだ。男の子の呻き声が聞こえる。
可哀想なはずなのに、その二人のやり取りがなんだか面白くて、私の口から笑い声がこぼれる。
「……クレア……?」
「確かに吃驚したけど……大丈夫だよ。クロに悪気がなかったって分かってるし。本当、いたずらっ子なのは変わらないよね」
「…………へ?」
くすんだ青色の瞳と目が合った。
私はすぐに、自分自身が発した言葉を反芻する。
「え? …………あっ?」
——何を言っているんだろう!
咄嗟に口元を手で押さえたが、全員が目を大きく開いて私の顔を見詰めている。ここに鏡があったら、多分私も私の顔を同じような顔で見詰めていることだろう。
「……あ……私、何言ってるんだろう。ごめんなさい……えっと、クロ……さん?」
「本当の名前はクロヴィス。でも、うん。クロって呼んでよ。敬語もなしね。その方が俺は気楽だからさ。俺も……今更だけどクレアって呼ぶし。良いよね」
「あっ。……はい……」
「敬語」
「う、うん……! ……えっと、クロ……?」
「そうそう、いい子だ。……ヴィル、皿を出してくれ。クッキー開けようぜ」
「……あ、あぁ……」
どっと背中に汗が噴き出した。脈動も跳ね上がり、呼吸も浅くなる。
どうしてあんなことを言ったのだろう。無意識だった。気付いたら口走っていた。私、どこかおかしいのかもしれない。
でも私の賢者の力がそれを否定する。体に異常はない。私はいたって正常だと、そう諭してくる。
「あ。そういやクレアさぁ、レイのこと魔王様って呼んでるだろ? レイって呼んでやってよ。……じゃないと、ほら、見てみろ。今にも舌を噛みちぎりそうな顔してる」
「へ?」
クロの隣に立つ魔王の顔を見上げた。唇を噛み締め、今にも泣き出しそうなほどに眉を下げて私の顔を見ている。
「……やっぱりクロのこと、燃やしておけば良かった……。今から燃やそうかな。クロ、外に出て」
「嫌に決まってんだろ馬鹿……って、あ……。違え、そうだ……! 俺、呑気にお茶飲みに来たんじゃねえよ! レイ、お前魔王辞めるって噂が出回ってたぞ! あれどういうことだよ!?」
クロは紙袋をヴィクトルさん——とりあえずそう呼ぶことにした——に乱暴に押し付け、魔王の両肩を掴んで激しく揺らし出す。
魔王は「揺らさないでよ」と目を眇め、クロの手を握り取った。
「バラデア王国の……勇者君との約束。クレアを置いて行ってもらう代わりに、魔王を辞めた。バラデアのことも襲うなって魔物達にも言い聞かせた。……というかそもそも、俺がいつから魔王になってたか自分でも知らないし」
「どうりで小物達がざわついてたわけだ。バラデアを襲えないから退屈だとか餌が減るだとか、界隈は大騒ぎだぜ。どうすんだよ」
「知るわけないでしょそんなの。勝手にどうにでもしてよ」
魔王は椅子を軋ませながら腰掛け、私にも隣に座るように手招きをして微笑んだ。
私が椅子に腰掛けると、クロは当たり前かのように私の目の前の席に座り、頬杖をつく。
「あのなぁ。魔王がいなくなるっつーことは、統制を取る奴がいなくなるっつーことなんだぞ」
「俺、今までそんなの取ったことないけど。やれって言われてもやりたくないし。めんどくさそう」
ヴィクトルさんが魔王と私の目の前に蜂蜜色の液体が入ったマグカップを置いた。いくつかの果物が混ざり合ったような香りがする。
「それにほら、もう命令済みだから。統制とかなんとかはそれで大丈夫でしょ?」
「最初のうちはな。だけどそのうち、お前の代わりを名乗る奴が出てくるかもしれない。そうなったら厄介なの」
「えー……。あ、ヴィクトルが魔王になれば良いじゃん。継承式とかやってあげようか?」
「俺なんて、そんな……烏滸がましい。魔力量も貴方様の足元にも及びませんよ」
ヴィクトルさんは魔王の前に座り、マグカップを口へ運んだ。
魔王に対して畏まってるわりには、目の前で飲み物を飲むなど気兼ねなく接するのはアリなようだ。
「……あの!」
——なんて、これ以上この穏やかな空気に流されてたまるか。
私はテーブルを叩いて立ち上がる。
「お話を遮ってごめんなさい! でもそろそろ、私をここに連れて来た理由とか……皆さんが私のことを知っている理由、話してくれませんか!? 私の知らない話ばかりで、かなり困惑しっぱなしなんです!」
ここに来てから初めの大声だ。ずっと「えっ」とか「あの」とかしか言ってなかった気がする。だからなのか、私の肺はすぐに酸素を求めてゼェハァと息を繰り返した。
「…………ごもっともだな。俺らだけで盛り上がりすぎた。どうすんだよ、レイ」
「ごめん、クレア……。クロ、代わりに……」
「馬鹿。お前にとって一番大事な話なんだから、お前の口からしないと。フォローは入れてやるから」
クロは皿に並べられた丸型のクッキーを手に取り頬張った。サクッと軽快な音が響くほど、部屋はすっかりと静まり返っている。
「……クレア。きっと君を困惑させる……いや、今もしているだろうけど。俺、話すのも下手だし……」
「…………その通りです。今もすごく困惑しています。困惑しかしていません。もう何を言われても、もうそんなに驚かないはずです。だから話してください、魔王……様」
目が合うと、彼はすぐに目線を泳がせた。しかし私は負けじとその横顔を見詰め続ける。やがて彼は観念したかのように喉を鳴らし、震える唇を僅かに開いた。




