4話 魔王辞める
「…………嘘……だろ……」
「あっ。暗くなっちゃった。さっきの光、勇者君が出してたんだね」
パチン、と軽快な音が耳元から聞こえたかと思えば、月明かりが私達を急に照らし出した。ついさっきまで月は私達の真上になんか居なかったはずなのに。
私の目線は地面へと落ちたアーサーの剣先をなぞったり、空に浮かぶ月を見上げたり忙しなく動く。
「クレア」
だけどその目線はやがて、私を呼ぶ声の主へと落ち着かせられた。魔王の指先が私の頬を撫でる。冷たい体温に似合わない、優しい手付き。
この触られ方を知っている。でも、何処で?
「ねえ、クレア。俺のこと……覚えてる?」
優しげに訊かれた言葉の意味が分からず、私は口をパクパクとさせることしか出来ない。喉に言葉がつっかえ、出てこなかった。
「ひっ、人違いでしょ!? 私達とクレアは小さい頃からずっと一緒に居たけど、クレアが一人で王国の外に出たことなんかないよ! つまり、クレアがあなたに会ったことなんかないはずだよ!」
代わりに声を張り上げたニーナは私の手を掴み、魔王から引き剥がすように引っ張る。私の体はニーナの後ろへと動く。
魔王は眉間を寄せると喉の奥をぐっ、と鳴らした。
「勇者君とその仲間達。君達、何が欲しくてここに来たの?」
最初に出していた気怠そうな声とは違う声色で魔王は問う。
「……何って……お前を討伐しに来たって言っただろ!」
「討伐って、それは何を持って討伐したってことになるわけ?」
「それは……えっと、お前の首を国に持って帰ることだ!」
「首だけで良いの? あとはなんか無いの?」
「他……? へっ……?」
「早く答えてよ、めんどくさいな。首だけで良いのかって訊いてるんだけど」
「えっ、あ……と、とりあえず……それで……」
ニーナを間に挟んではいるが、私の目の前でアーサーと魔王が会話をしている。
魔王は「分かった」と呟き、右手のひらを開いて地面へと向けた。みるみるうちにその右手は月明かりよりも美しく光り出す。
アーサーもバルドも口を開け、瞬きもせずその光景をただ黙って見詰めていた。ニーナの背中も動かない。むろん、私も動かなかった。もしかしたらこれは魔王から仕掛けられた攻撃で、次の一瞬には私達は死んでいたかもしれないのに。
私達は無様にも、その光の神々しさや美しさというものに見惚れてしまったのだと思う。
「うん。上出来。……じゃあこれ、どうぞ」
何か重たい物が落ちたような鈍い音が足元から聞こえ、魔王の手を見詰めていた私の視線が釣られて落ちた。
月明かりのおかげでよく見えたそれは——人の頭。
「ひっ……!?」
ニーナが半歩下がる。
私も続いて悲鳴を上げそうになったが、それより先にバルドが女の子のように甲高く叫んだものだからおかげで私の悲鳴は引っ込んだ。
息を呑み、改めてその頭を眺める。それはどこからどう見ても、いまだ私達の前に立つ魔王の顔と全く同じ顔だった。
「何……だ……!?」
「俺の首。持ち帰って良いよ。好きにして」
「は!?」
「何? まだなんか欲しいの?」
魔王は声を張り上げるアーサーを一瞥するが、すぐにまた私と目が合う。
「いや、いやいや! この首は所詮レプリカってことだろ! こんなんじゃ、お前がいつ人間達を襲いに来るか分かったもんじゃねえ!」
「え? 俺、人間は襲わないよ。襲ったことなんかないもん」
「頻繁に魔物達が人間を襲ってんだよ! あれ、お前が命令してんだろ!? 魔王なんだから! それに、お前を討伐しに行った勇者達が帰って来なかったりもしている!」
「それも知らない。魔物とか俺に関係ないし、ここ数百年で会った人間は君達くらいだし」
「そ……そんなわけねえだろ!? 皆、お前に殺されたって噂が出回ってんだ!」
「あのさぁ、勇者君。君は結局俺にどうしてほしいの。首が欲しいんじゃないの? ……あー、いや、分かった。じゃあこれでどう?」
淡々とアーサーに畳み掛けるように問いを重ね、魔王は地面へと転がっていた自身と全く同じ顔をした頭を拾い上げた。その顔に向かって一生懸命何かをしている——指で文字を書いているように見える。
「勇者君。君の名前は?」
「へ……? アーサー……」
「じゃあはい、これ。どうぞ」
魔王はアーサーに自身の顔——私はこれを今後レプリカと呼ぶ——を差し出した。
私もニーナもバルドも、アーサーの手へと渡ったレプリカを見詰める。
「『勇者アーサーにやられたので魔王辞めます。もう人間に手を出しません。レイヴァン』」
レプリカの頬に刻まれた文字をアーサーが読み上げ、私も目で追う。滑らかな肌には確かに一言一句、赤い字で間違いなくそう刻まれていた。
レイヴァン——魔王の名前がそうなのだろうか。
「何だこれ……」
「俺の直筆メッセージ。普段字なんか書かないから超レア物。やったね。というわけで、俺は今日この場所で勇者アーサー君にやられたことにして良いから。好きにその権限を振り回して歩くと良いよ」
「へ?」
「あぁ、あと魔物達が心配なんだっけ? ちょっと待ってね。俺が呼べば上位の魔物達が飛んでくるらしいから。えっとー……」
発せられる言葉を一言も呑み込めていない私達をよそに、魔王は両手を叩き合わせた。パンッ、という聞き馴染みのある音が辺りにこだまし、やがて聞こえなくなる。
目を閉じて、開く。一秒にも満たない、なんてことない瞬きという動作をした。
たったそれだけの動きだったはずなのに、目を開いた瞬間、私達の周りを数多の魔物達が囲うようにそこに跪いていた。
「……えっ」
私の喉から勝手に声が漏れた。あれほど軽かった体は、一気に重圧感に押し潰されそうになる。
「本当に来た。暇なんだね、君達」
魔物は十匹、百匹なんて数ではない。もっといる。小さいものから大きいもの、動物のようなものから人間のようなものまで、種別も様々。
生乾きの洗濯物、洗っていない動物、床を拭いた後の雑巾の臭い、その全てを混ぜ合わせたかのような臭いが鼻腔を嫌にくすぐり、私は口元を手で覆った。
「……クレア? どうしたの? 具合、悪い……?」
誰かの手が私の肩に触れた。目線を上げると、眉尻を下げた魔王と目が合う。
「……魔王様は気付かねえのかよ……! くっせぇんだよ……吐きそ……うぇっ……」
「うわ……。勇者君、頼むからここで吐かないでね。あっちの草の陰とかにして」
「…………テメェ……! うっぷ……」
「でもそっか。ごめんね、クレア。少しだけ待っててね」
肩に置かれていた手が私の後頭部に移動し、あくまでも優しく抱き寄せられた。私の顔は魔王の胸元へと埋まる。
「……っ」
あれほど不快だった臭いは嘘のように消え去り、なんとも表し難い落ち着く匂いが脳にまで駆け上がる。
何の匂いだろう。嗅いだことがある。何処で嗅いだかは思い出せないけど私はこの匂いが大好きだった。そんなこと、あるはずのない記憶なのに。
「クレア……!」
「ピンク髪ちゃん。しー。喋らないで」
魔王はすぅっ、と息を吸った。
「ねぇ、君達。もうバラデア王国を襲ったりするの辞めてくれる? 君達の知り合いとか家族にもそう伝えておいて」
魔王が私の髪を梳いた瞬間、耳を劈くような咆哮が響き渡った。地響きが起き、葉さえも揺れて音を鳴らす。
耳が痛い。鼓膜がどうにかなりそうだ。体も震え始めてきて、立っているのもやっとなほど。
私は思わず魔王の胸元を強く握った。
「黙れ」
咆哮の中、聞こえたのは魔王の声。
たった一言を皮切りに騒音にも似た声達がピタリと止んだ。
「……お前達の声でクレアが怖がっている。分かったらもう帰れ。俺との約束を違えれば、俺はお前達の一族を末代まで滅ぼす。…………それだけは覚えておいてね。はい、じゃあ、解散」
体が、いや、空気が軽くなった。
視線を上げるとまた魔王と目が合う。
「お待たせ、クレア。怖かったね。ごめんね。もうアイツら、いなくなったから……あっ」
魔王は眉を寄せる。
「魔王辞めるって言うの、忘れてた……。まあ良いや。それは噂として広めてもらおう」
「……魔王を、辞める……?」
バルドはこめかみに流れる汗を手で拭いながら呟いた。
「え? うん。勇者君が持ってる首にもそう書いてあるでしょ? それで君達は安心して帰れるんだよね。魔物達もバラデア王国を襲うこともなくなるし、一安心。めでたしだね」
「……いや……は? というか、お前……なんでバラデアの名前を知ってんだよ……」
「そりゃ知ってるよ。……俺の大切な王国だもん」
魔王の手が私の体から離れる。
「大切……?」
うっかりと私が呟くと、魔王は目を眇めて私の顔を見詰めた。
寂しそうな顔。どうしてそんな顔をするの? そんな顔をしないでほしい。
なんで私は、そう思うの?
「そう、大切。……クレアの次にね」
魔王は眉尻を下げて微笑む。そのあまりにも弱々しい笑みを見て、私の心臓が跳ね上がった。
真っ直ぐに魔王の顔が見れなくなってしまった。だけどそれは決して怖いからなどという理由ではない。
「なんで……私のこと……」
知ってるの?
訊こうとして唇を動かそうとしたけれども、それは魔王の人差し指によって遮られた。
「勇者アーサー君とその御一行様。改めて言うよ。俺は今この場で魔王を辞める。証人は君達自身しか居ないけれど、証拠はその俺の首とバラデア王国の安寧だ」
「……魔王を、辞める……」
「そう」
アーサーは自身が持つレプリカへと目線を落とす。
ニーナもバルドも、アーサーの目線に釣られていた。
「魔王辞める。その代わり、この娘を置いて帰って」
だけど、私だけは——魔王から目が離せなかった。私の目は、魔王に奪われてしまったのだ。
魔王様の桜鼠色の髪を風が撫でる。新鮮な葉のような色の瞳と指先は、真っ直ぐ私にだけ向けられていた。




