19話 俺は悪いインキュバスだから
吸血鬼に与えられたのは何も鋭い牙だけではない。黒く鋭い羽も生やそうと思えば生やせるのだ。
「ヴィル。いたぜ」
木々が辺りを囲う一本道。その上空。
クロヴィスは自身の隣を飛ぶヴィクトルに声を掛け、親指を突き出した。示す先にいるのは、地上を歩くニーナとバルド。
そしてその彼らの後ろをこそこそとまるで監視するかのように歩く全く見覚えのない一人の人間の姿。体付きからして男だろうな、とクロヴィスは顎を引く。
「分かりやすくバラデア印のマント羽織ってんなぁ。どうする?」
「どうするも何も、いかにもニーナ様とバルド様に危害を及ぼしそうな予感しかしないな」
「だよなぁ。でもそうなっても俺達が殺すわけにいかねえし……あっ」
マントを纏った人間は腰に差した刀に手をかけ、鞘から抜く。そしてその人間はニーナとバルドに向かって足を大きく踏み出した。
「言ったそばから」
「先に行く」
それだけ言うと、ヴィクトルの姿が忽然と消えた——かと思えば彼の姿は既に地上にあった。ニーナとバルドに剣先を向けた男の首を掴み、森の奥へと共に姿を消す。
クロヴィスもヴィクトルの後を追い、森の中へと降り立った。
「おい、致命傷じゃないよな」
地面に仰向けに転がりむせ込む人間の男の姿が視界に入り込み、クロヴィスはため息を吐いた。
人間は酷く痛そうに鳩尾を抑えて唸っている。ヴィクトルはこの一瞬で何をしたというのか。
まったく末恐ろしい男だ。
「まさか。元気に生きているだろう?」
「これを元気と言えるのか? まあ良いや。……なぁ、人間」
クロヴィスは仰向けになる人間の腹に跨り、腰を落とした。
「お前こそ、やりすぎるなよ」
「質問するだけだって。……お前、バラデア王国の奴だろ? どうしてあの二人を追っていた? 二人が王国を出た後からずっと追っていたのか?」
「…………この……お前ら、魔物かっ……!?」
人間は手に持っていた剣を突き出した。その剣先はクロヴィスの脇腹をいとも容易く貫通する。
「おいおい。魔物かどうか確かめる前に刺す奴があるかよ。人間だったらどうする気なんだ」
刺された箇所からはとめどなく血が流れ出し、それは人間の服を染め上げていく。
ヴィクトルは剣を握る人間の腕を足先だけで地面へと押さえ付けた。
その隙にクロヴィスは自身の脇腹に刺さった剣を抜き、人間の手が届かないであろう距離に投げ捨てる。
「クロ」
「さすがにちょっと痛えや。……質問には答えてはくれないのか? 人間」
「……言うわけない……だろ……」
「そっか。ちなみに俺、なんの魔物に見える?」
「…………知るかよ……!」
「つれないねぇ」
クロヴィスは服のチャックを指先でつまみ、おろした。
目線を下ろし腹を見るが、そこに開いた穴からはまだ血が流れて止まらない。
「インキュバスって知っているだろ?」
「…………まさか……お前……」
「そう。……これから俺は、お前が死ぬまでお前の精力を吸い尽くす」
「……なっ……」
「お前はどんどん気持ち良くなって、自分が死んでいくことにすら気付かない。最高な最期だろう?」
人間の首筋をクロヴィスの指先が撫でる。すると人間の体がビクリと震え、その瞳が揺らぎだす。
「でも気持ち良いだけじゃつまらないか。……俺は悪ーいインキュバスだから、人間の悲鳴が大好物なんだ」
舌舐めずりをして見せると、人間の口から小さく悲鳴が漏れた。
「可哀想に。怖いだろう。お前は戦い慣れていない感じがするもんな。新兵か? ……誰に何を命令されたんだ? あの二人に魔王との繋がりがないか探れ、とでも言われたか?」
クロヴィスの両手は人間の頬を撫でる。
「ああ、怖くて喋れないか。……今なら魔物は人間を襲わないから、一人で出歩いても大丈夫だって言われちゃったのか?」
問うてもなお、人間は唇を振るわせるばかりで言葉を吐かない。
「んー。やり方を変えようか。……人間は気持ち良くなるとお喋りになってくれるもんなぁ?」
「……なっ……にを……」
「はは。顔が真っ赤だぜ」
人間の頬を撫でていたクロヴィスは、その手をするりと人間の鳩尾まで一気に滑らせた。クロヴィスの顔を見詰めていた人間の体はガクガクと震え出す。
「なんでお前、あの二人を殺そうとした? ……いや、違うな。剣で脅してあの家が誰の家かという情報を吐かせようとしたか。まあ、どっちでも良いんだけどさ」
クロヴィスは耳を人間の胸元へと置いた。
脈動が跳ね上がるのが聞こえ、思わず声を出して笑う。
ひとしきり笑った後、クロヴィスは人間の耳元へと唇を近付けた。
「なぁ、教えてくれたら……天国を見せてやるぜ」
人間の体が跳ね、そのまま彼は動かなくなってしまった。顔を見ると白目を剥いていて、その鼻からは血が流れていた。
「うへー。不味そ」
眉を顰めながらクロヴィスは立ち上がり、ヴィクトルの隣へと立つ。
「呆れた奴だな」
「俺が? コイツが?」
「両方だ。クロ、お前いつまでインキュバスだってネタ言い続けるんだよ。飽きないのか?」
「飽きねえ飽きねえ。こうやって誑かしてやると、人間も魔物も面白い反応見せてくれるからなぁ。大体の奴は何もしなくてもこうやって気絶しちまうけど。……俺は罪な野郎だぜ。まったく」
腹の底から吐き出されたような吐息がクロヴィスの耳朶をなぞった。
ヴィクトルは呆れたように息を吐くのが上手い。
「魔力に当てられたんだろう。そいつが未熟な人間だったというわけだ」
「そこは俺が蠱惑的って言えよ」
ヴィクトルは自身の手首に爪で線を引く。クロヴィスの鼻腔に、まるで高級な料理店に入った時のような腹を空かせる香りが通り抜けた。
「ほら」
「さんきゅ」
ヴィクトルの手首から流れる血を口に含み、飲み込む。するとクロヴィスの腹に開いていたはずの穴がみるみるうちに塞がる。
クロヴィスは口元を手で拭い、地面に転がったままの人間に背を向けた。ヴィクトルも隣を歩き出す。
「俺の血の匂い、あの人間にこびりついちゃったなぁ」
「そうだな。でもまあ、刺した方が悪いだろ。不可抗力だ」
「そりゃそうか。……良い匂いするだろ? お前の大好物の匂いだぜ」
周りの木々は、風も吹いていないくせにやけに葉が揺れていて騒がしい。
なんて白々しく思ってみたりはしたが、クロヴィスにはその原因は既に分かっていた。
「レイやヴィルの匂いほどではないけど、俺の匂いが染み付いた人間なんてものも——魔物達の大好物だからなぁ。最近人間を襲えていなくて、そろそろあいつらも飢え始めてるし」
「参ったな。人間を殺すなとレイヴァン様からのご命令があるというのに」
「俺達はべつに殺したりしないだろう? ……けどまあ、一応忠告しておいてやれよ。ヴィル」
ヴィクトルは顎を上げ、片手を口の横に添える。
「おい。小物達よ。そこに倒れている人間、美味そうだからって喰うなよ。まあ俺達はもうしばらくここには戻ってこないから、そこの人間が消えてても気付かんがな」
森にヴィクトルの声がこだました。
なんとわざとらしい芝居だ。滑稽にもほどがあるだろう。
クロヴィスは肩を震わせ笑い出す。
「おいおい。それだといかにも、あの人間を喰って良いって言ってるみたいに聞こえちまう」
「そうか? 解釈はそれぞれだ」
「はは。まあ……あの人間は何の罪もない、いたいけな少年少女を手に掛けようとしたんだ。因果応報かもな」
森が騒めき、やがて動き出した。
呻き声や何かが千切れるような音、水滴の音。様々な音がクロヴィスとヴィクトルの背後から音楽を奏で始め、しかし、鳴り止まない。
「魔王の素性を探ろうというのは常に死と隣り合わせなんだぜ、人間。……魔王の取り巻きっつーのは何も善良な魔物ばかりじゃない」
もう姿も既に見えなくなった人間にクロヴィスは言う。
もっとも、近くにあの人間がまだいたとして、もう言葉は彼の耳には届かなくなってしまっているだろうけれども。
「で、どうだった。鎌を掛けた結果は」
「あの人間の顔を見てなかったのか? まったく、どこを見てたんだよ。……どれもこれも当たりだぜ。バラデアは心根ではレイの死を疑っているらしい。しつこいもんだな」
クロヴィスは肩を竦めた。
隣を歩くヴィクトルも目を眇めている。何か思うところがあるのだろう。訊ねはしないが、楽しいことを考えているような顔つきではない。
「ま、今の俺達はクレアとその友達を見守っていくことくらいしかやることがないけど。それが魔王の命令だからな。……お使いとは上手く誤魔化したな。ヴィル。でもクレアのことだから、何を買ったの? って訊いてくるぜ」
「そこなんだよな。なんて言って誤魔化すかな」
「ケーキでも焼けよ。それ持って行くから」
すっかり静寂に包まれた森はクロヴィスとヴィクトルに影を落とし込み、二人の姿を暗闇へと溶かし込んだ。




