第七話 インカントの傘
軍団というものを、ひさびさに見た気がする。
ヴェッセルでは、俺達はいつも小隊単位で動いていた。二十人ちょっとの、顔の見える集まりだ。
だが、エルダインへ向かう行軍は、違った。
街道を、人が埋めていた。前を見ても、後ろを見ても、兵士の姿しか見えない。旗が、いくつも立っている。第七軍団、一万五千人が、一本の道を蟻の列みたいに進んでいく。
その中で、俺の二十三人は、パンくずのように小さい。
「いやー、壮観ですねえ」
ゲルントが、伸びをしながら言った。
「これだけ集まって、どこへ行くと思います」
「どこって、エルダインだろ」
「そうじゃなくて。もっと大きな話ですよ。この国は、いったいどこまで行く気なんですかね」
答えなかった。答えを持っていなかった。
この一年、俺は目の前の谷と、目の前の村しか見ていなかった。帝国が、どこまで広がるつもりなのか。考えたこともなかった。
「さあな。確かなのは、故郷からはどんどん離れて行ってるってことだけだな」
「娘が結婚するまでには帰りたいですけどね」
「娘? 何歳だ?」
「六歳です」
「……じゃあ十年は帰らなくても大丈夫だな」
「それは勘弁してください」
二人で笑った。行軍中に話すことは大した内容じゃない。けど、こういう話をするのは大切だ。いつ死ぬか分からない仕事だから。
三日ほど進むと、土地が変わった。
畑がなくなり、人の住む気配が消えた。木がねじくれて、草の色がくすんでいる。空気が、なんとなく重い。息を吸うと、喉の奥に埃みたいなものが残る。
「なんだか、気味の悪い場所ですね」
リーゼが、隊列の中で言った。
「魔素だ」
答えたのは、エイダンだった。
「まそ、ですか」
「空気に混じってる。目には見えない。濃い場所と、薄い場所がある。ここは、だいぶ濃いな」
「魔素が濃いと、どうなるんですか?」
「……魔物が湧く」
リーゼが、少し身を硬くした。
「人が住まない土地は、魔素が濃くなる。魔素が濃いと、魔物が出る。魔物が出るから、人が住まない。……どっちが先か、分からんがな」
「じゃあ、この辺は」
「昔は、村があったのかもな。だけど、今はない。そういうことだ」
俺は、ヴェッセルの無人の村を思い出した。人の消えた村。あれも、あと何年かすれば、こうなるのかもしれない。
コンラートの帳面の上で「処理済み」になった土地が、やがて魔物の湧く土地に変わる。誰も、そこまでは書かない。
それが空を覆ったのは、昼過ぎだった。
最初は、雲かと思った。
黒い塊が、山の向こうから湧いて、こちらへ流れてくる。だが、雲は羽ばたかない。
「――鳥?」
リーゼが、空を見上げた。
鳥だった。だが、ただの鳥じゃない。一羽が、人の胴ほどもある。黒い羽。曲がったくちばし。数え切れない。何百、いや、何千といた。
「グレイヴクロウだ」
ゲルントの声が、低くなった。軽口が消えていた。
「荒れた土地に湧いて死肉を食う。……このでかい群れは、初めて見た」
前方で、伝令が走る。号令が飛ぶ。
「全軍停止! 隊列を組め! もたもたするな!」
一万五千の軍が、空からの敵に向き直る。だが、剣も槍も、空には届かない。
「弓隊、構え――!」
どこか前方で、太い声がした。
何百という弓が、空へ向いた。
「放て!」
矢の雨が、空へ昇った。
群れの一部が、羽をもがれて落ちてくる。地響きのように、黒い体が地面に叩きつけられる。
だが、削れたのは、ほんの一部だった。残りは、まだ空を覆っている。
群れが、降りてきた。
急降下だ。何十羽もが、翼をたたんで、槍のように落ちてくる。狙いは、目と、喉。無防備な、柔らかいところ。
悲鳴が上がった。あちこちで。
くちばしに喉を裂かれた兵が、血を噴いて倒れる。目を抉られた男が、剣を振り回しながら転げ回る。
剣で払っても、数が多すぎた。一羽斬る間に、三羽が来る。
「インカント隊、展開しろ!」
その号令で、隊列の中央から、詠唱班が押し出されてきた。
三人一組が、いくつも。杖を地に突き、目を閉じ、声を合わせる。すぐそばに、俺の小隊がいた。詠唱が聞こえた。
「ここを陣と定める。
石なき砦よ、我らの前に築かれよ――
《カストラ・アイギス》」
空気が、鳴った。
俺達の頭上に、薄く光る膜が広がった。半透明の、巨大な天井。軍のおよそ半分を、覆うほどの結界だった。
落ちてきたグレイヴクロウが、その膜にぶつかって、弾かれる。何十羽も、何百羽も。膜が波打ち、光が散る。だが、破れない。
「す、すごい……」
リーゼが、上を見て呟いた。
俺も、初めて見た。これが、魔法の結界か。
だが、魔法を発動している三人組の顔を見て、息を呑んだ。汗だくだった。血管が浮き、歯を食いしばっている。膜を保つだけで、体の中の何かを削り取られている。そういう顔だった。
別の詠唱班が、今度は空へ手を向けた。
「灰も残すな。
天翔ける災いよ、ことごとく燃え尽きよ――
《イグニス・エルプティオ》」
空の一角が、炎に包まれた。
群れの一塊が、羽ごと焼かれて、火の粉になって散る。
だが、それも一角だけだ。魔法は、空を全部は焼けない。撃った班は、その一撃で肩で息をしている。どうやら、連発はできないようだ。
弓と、魔法と、剣。
どれも、決定打にはならなかった。ただ、耐えるしかなかった。
問題は、結界の外だった。
軍の半分は、膜の中にいる。だが、残りの半分は、外だ。
結界に入りきれなかった部隊が、空の下で、食い荒らされていた。膜のこちら側から、それが見えた。手を伸ばせば届きそうな距離で、兵が、次々に倒れていく。
膜の内側の兵は、誰も動かなかった。動けなかった。
外へ出れば、守りを失う。それは、死を意味するからだ。
俺にも、分かっていた。
分かっていて、俺は、走り出していた。
「第三小隊はここで待機! 誰も出るな!」
膜の際まで走って、外へ飛び出した。
すぐそばで、若い兵が倒れていた。助けを求めて叫んでいる。グレイヴクロウが、その背中に群がっていた。
剣で払った。一羽、二羽。倒れた兵の襟を掴んで、膜のほうへ引きずる。
頭の上で、羽音がした。くちばしが、肩をかすめた。熱い。血が出たのが分かった。
構うものか。あと少しで、膜の内側だ。
「小隊長! よせ!」
エイダンの声が聞こえた。
振り返ると、エイダンが膜の外へ飛び出してくるところだった。
いや、エイダンだけじゃない。全員だ。ゲルントも、ダルクも、リーゼも。二十三人が、結界の守りを捨てて、俺のいる死地へ走ってくる。
「バカ野郎! 戻れ!」
「あんたが戻ってこないからでしょうが!」
ゲルントが、怒鳴り返してきた。本気で、怒っていた。
ダルクは近くで倒れていた他の兵士を担ぎ、他の若いのがそれを守る。俺の周りでエイダンやゲルントがグレイヴクロウを剣で払っている。その隙に、俺も兵士を担ぎ、じりじりと膜のほうへ後退する。
誰かが、俺の背中を守っていた。リーゼだった。あの家では固まった子が、今は俺の後ろで剣を振っていた。
全員で、膜の内側に転がり込んだ。
一人も、欠けていなかった。奇跡みたいに。
群れが去ったのは、日が傾く頃だった。
腹が満ちたのか、飽きたのか。黒い塊は、来た時と同じように、山の向こうへ流れて消えた。
地面には、死体が転がっていた。
仲間達の死体。結界の外にいた者たちだ。何百、と聞いた。数えた者はいない。
鳥に食われた死体は、遠目には、ただの黒い塊に見えた。
インカント隊は、使い物にならなくなっていた。
あの結界を保った班は、一人が魔素の吸いすぎで死に、二人が寝込んだらしい。軍は、その場で足を止めることになった。魔法の使い手を休ませなければ、次はない。
魔法は、無限じゃない。撃てば、減る。俺は、この時それを、初めて肌で知った。
その夜、エイダンは、口をきかなかった。
俺が近づいても、火を見たままだった。
しばらくして、ようやく、低い声で言った。
「小隊全員、無事だった」
「ああ」
「今回は、な」
それだけだった。
責めるより、ずっと、こたえた。
俺が飛び出さなければ、あいつらは魔法の中で安全だった。
俺を助けるために、二十三人が、守りを捨てて死地に出た。今回は、たまたま、一人も死ななかった。
次も、そうとは限らない。
前にエイダンは、自分の命を安く見すぎだと言った。
違った。俺の命は、俺だけのものじゃなかった。俺が死のうとするたび、あいつらも、一緒に死のうとする。




