第五十二話 投げられた石
アンナが街へ発って、三日目だった。
昼を過ぎた頃、俺は薪を割っていた。
冬を越すための準備。
最近は、剣より斧のほうが手に馴染んできた。
セラは、家の裏で素振りをしている。
乾いた音が、規則正しく聞こえてくる。
いつもと変わらない日だった。
その音に、別の音が混じったのは、太陽が沈み始めてきた頃だ。
遠くから、蹄の音がした。
一頭ではない。
いくつもの蹄が、辺境の村に響いている。
斧を持つ手が、止まった。
こんなことは今までなかった。
行商の男でさえ、もう来なくなって久しい。
その音は、まっすぐ村へ向かってきていた。
俺は、ずっと忘れたふりをしていた。
誰も追ってこない。
そう思うことにして、生きてきた。
だが、思うことにしていただけだ。
事実が消えたわけではなかった。
俺は家に戻った。
壁にかけたままの剣を取る。
ずいぶん長いこと、抜いていない。
柄を握った感触が、昔とは違う。
まるで、自分の剣じゃないみたいだ。
「どうしたの?」
セラが、素振りの手を止めてこっちを見ていた。
「家に入ってろ。奥から出てくるな」
「なにかあったの?」
「いいから入ってろ!」
俺が声を荒げると、セラはびくりと肩を震わせた。
こんな声を、この子に向けたのは初めてだった。
村の入り口に、馬が並んでいた。
鎧の男が、数人。
馬を降りて、こちらを見ている。
その後ろに一人だけ、馬を降りない者がいた。
女だった。
仕立てのいい洋服は、こんな辺境の村には似合わなかった。
胸元に、紋章が見えた。
剣と鷲を絡めた紋章。
見たこともない。
だが、良くないものだということはわかる。
「ごきげんよう」
女が、馬の上から言った。
「あなたを探すのに、ずいぶんかかったわ。レイヴァンさん」
俺の名を、女は知っていた。
それだけで、俺の予感が当たっているということがわかった。
「……人違いだ。そんなやつはここにはいない」
「そう。では、その手にあるのはなにかしら?」
俺の手を指した。
剣を握った、俺の手を。
「それは、帝国の剣ではなくて?」
俺は、答えられなかった。
「すべて知っているわ。あの日のこと」
女が静かに言った。
「……なんのことだ」
「あら、忘れてしまうわけがないでしょう。あの子はどこに?」
あの子。
誰のことかは、聞くまでもなかった。
「……いない。あの子は、とうに死んだ」
「嘘が下手ね。あの子にも嘘はついてきたでしょう? よくバレなかったわね」
女が、顎で合図した。
男たちが剣を抜いた。
「答えないのなら、力づくで」
最初の一人が、踏み込んできた。
考えるより先に、体が動いた。
二十年、剣を振り続けた体だ。
衰えても、殺し方だけは忘れていない。
相手の剣を払い、返す刃で喉を裂いた。
血が噴いた。
久しぶりの匂いだった。
二人目が来る。
突き出された剣をかわし、太ももを切り裂いた。
そいつは、叫びながら転んだ。
だが、三人目で息が上がった。
昔なら、こんなものではなかった。
体が、俺の思うよりずっと重い。
肩に、一太刀もらった。
「レイ!」
セラの声だった。
家から飛び出してきていた。
出てくるなと言ったのに。
男たちの動きが止まる。
女が、初めて馬から降りた。
その目が、セラに向いた。
和らいでいく。
長く探した宝物を、ようやく見つけたように。
「ああ……そっくり。お母様に」
セラが戸惑っている。
「え、え?」
「なんのことかわからないでしょう。無理もありません」
女が、セラのほうに歩み寄っていく。
「あなた、名前は?」
「……セラ」
セラが答えた。
わけも分からないまま。
「セラ。いい名前ね。でも、それは、あなたの本当の名前じゃないの」
女が微笑んだ。
「あなたの本当の名は、セラフィーナ。セラフィーナ・エルダイン。今は無き、エルダイン王国の、第三王女」
セラが、俺を見た。
なにを言われているのか分からない、という顔で。
「その男があの日、エルダイン王国に攻め込んだ。王都に火を放ち、王妃様を殺して、あなたを攫った。そして、あなたに嘘をついて、今まで父親のように接してきた。あなたの仇そのものなのです」
セラの目が、大きく開いた。
それから、ゆっくりと俺を見た。
「……うそ、だよね?」
セラの声が震えていた。
「ねえ、レイ。うそだって、言ってよ」
俺は、口を開いた。
なにか、言おうとした。
だが、言葉が出てこなかった。
十何年、言えなかったことが、こんなときに出てくるはずもなかった。
俺はただ、口を閉じた。
その沈黙が答えだった。
セラの顔から、色が引いていった。
セラが、地面を見た。
男の一人が落とした剣が、そこに転がっていた。
それを拾う。
初めて握る、本物の剣。
この時が来るのが怖くて、渡してやれなかった剣だ。
「セラ……」
「来ないで!」
セラが剣を構えた。
その構えは、俺が教えたものだった。
斬りかかってくる。
俺は受けた。
受けることしかできなかった。
この子に刃を向けることが、どうしてもできなかった。
セラの剣が、俺の腕を掠めた。
頬を掠めた。
それでも俺は、剣を振れなかった。
何度目かの打ち合いで、セラの動きが止まった。
肩で息をしている。
目には、涙が溜まっていた。
この子は、気づいたのだ。
俺が、本気で戦っていないことに。
相手の嘘を見抜け。
構えの、わずかな緩みを見ろ。
そう教えたのは、俺だ。
その俺が、全身で嘘をついていた。
「なんで……」
セラの声は、掠れていた。
「なんで、戦わないの。なんでよ!」
俺は、答えられなかった。
答えれば、この子は俺を斬れなくなる。
答えなくても、斬れないでいる。
セラは、剣を握ったまま動けなくなっていた。
俺を、殺すことも出来ず。
許すことも出来ず。
セラが、懐からなにかを取り出した。
丸い石。
いつか俺が、無事に帰れるようにと、握らせた石。
ヤコブが残した石。
セラはそれを、俺に投げつけた。
石は、俺の胸に当たって、地面に落ちた。
乾いた音がした。
「もう……知らない」
セラは、剣を捨てて走り出した。
村の外へ。
「セラ!」
俺は、追えなかった。
追う資格が、俺にはなかった。
「捕まえて! 傷つけては――」
男たちが、走り出そうとした瞬間、そいつらの前に立ち塞がった。
女がため息をついた。
「残念ね。あの子があなたを始末してくれたら楽だったのだけど」
女の目が、俺に戻った。
「あなたには、用がないの。ここで終わりにしましょう」
男たちが俺を囲んだ。
俺は、剣を握り直した。
地面に落ちた、丸い石を一度だけ見た。
昔より、少し綺麗になっていた。




