第五十話 繕いかけたもの
いつの間にか、村に昇る煙が減っていた。
この村に来たばかりの頃は、どの屋根からもまっすぐに煙が立ちのぼっていた。
今朝は、数えるほどしかない。
あれから何度、冬を越しただろう。
指を折って数えるのも、いつからか面倒になっていた。
時間の流れ方が、昔とは違う。
セラと訓練をして、飯を食べる。
薪を割って、畑の様子を見に行く。
また、セラの訓練を見に行って、夜は二人で飯を食べる。
同じことを繰り返しているうちに、季節だけが、俺の脇をすり抜けていった。
「あ、おかえりー!」
「ただいま。剣先が落ちてきてるぞ」
「わかってる、ちょっと疲れただけ! ねえ、今日のご飯はなに?」
「楽しみはとっとけ。ほら、あと五十だ」
「はーい」
気づけばセラの背は、もう俺とそう変わらない。
俺を見上げていた子供が、今は真っ直ぐこっちを見る。
村は、静かになった。
俺がここへ来た頃にいた年寄りは、もう半分も残っていない。
誰それが、冬の間に息を引き取った。
そう聞くことが増えた。
誰も住まなくなった家は、だいぶ増えてきた。
窓だけが風で揺れている。
俺が来た頃は、ここに移住する若い連中もいたみたいだが、いまはめっきり人は来ない。
そういえば、ニールも移住してきたうちの一人だったな。
あいつと守ったあの柵は、もうほとんど朽ち果てている。
幸いあれ以来、魔物の群れは来ていない。
それだけが救いだった。
ヨハンの家の屋根も、片側が下がってきていた。
「ヨハンさん。俺がやりますよ。ゆっくりしててください」
「なんの。あれくらい、まだ自分で――」
「いいから、ほら」
ヨハンはぶつくさ言いながら、近くの椅子に腰を掛けた。
ここ数年で、小言が多くなった。
薪の並べ方が気に入らないだの、井戸の近くの雑草を取っていないだの。
昔は、もっと――いや、やめよう。
歳を取るってのは、そういうことだ。
「そういえばヨハンさん。アンナ、最近見ませんね。どこ行ったんですか?」
「ああ、あの子なら街に出かけておる。行商人がなかなか来ぬから、自分で売りに行くなんて言いよる。まったく、最近の若いのは我慢が――」
また、小言が始まった。
たしかに以前は、少なくても半年に一回は、行商人が訪れていた。
ここ最近は、年に一回来たらいいほうだ。
なんでも、役人が変わったとかで、上手く商売が出来なくなったみたいだ。
結局上の連中は、下々の者がどうなろうが知ったこっちゃないんだろう。
板を打ちながら、俺は下を見ないようにしていた。
今のヨハンの姿が昔と違いすぎて、ここから見るのは胸が苦しくなるからだ。
マルタは、昼飯を持ってこなくなっていた。
前はほぼ毎日、訓練の後の食事を用意してくれていた。
そのたびに、セラとアンナと世間話をして、楽しそうだった。
今は、あまり外に出なくなった。
「ばっちゃん、それ重いでしょ? セラが持つよ」
「おや、すまないねえ。……あんた、こんなに大きかったかい」
「もう、この前もそれ言ったよ」
マルタは、同じことを何度も言うようになっていた。
セラは、それを笑って聞いている。
怒りもせず、急かしもしない。
この子はこういうところが、俺よりずっとまともに出来ている。
マルタの鍋の中身は、昔より薄くなった。
芋の切り方も、揃わなくなった。
それでも、俺はうまいと言って食った。
マルタは、目を細めて笑っていた。
それでいいと思った。
悪くない、と思ったときは、いつも背中が冷える。
だが、その感覚にも、いつからか慣れてしまっていた。
その年の、冬の初めだった。
「どうした? 味薄かったか?」
夕食を食べるセラの箸が止まっていた。
「あ、いや。マルタのばっちゃん、昨日見なかったなーって」
「そういえば、ヨハンさんも見てないな」
「いつもなら、止めても畑に来るのにね」
「……明日見に行ってみるか」
次の日の朝、ヨハンの家の煙突から煙が立っていなかった。
俺は、家に向かった。
足が重い。
こういう時は、たいてい悪いことが起こるときだ。
「ヨハンさん、いますか? レイヴァンです」
扉を叩いても返事がない。
「失礼します。ヨハンさん、レイヴァンです」
中に入ると、マルタは寝床にいた。
眠っているように見えた。
だが、違うことは入った瞬間に分かった。
こういう静けさを、俺は知っている。
冷たくなった手が、胸の上で軽く組まれていた。
「レイヴァンか……」
部屋の隅から声がした。
か細い声だった。
「……ヨハンさん。マルタさんは――」
「ああ、死んだよ。苦しまずにいけたんじゃ。上等な死にかたじゃな」
枕元には、繕いかけの布が置いてあった。
針が途中で止まっている。
最後まで、誰かの服を直そうとしていたらしい。
俺はしばらく動けなかった。
「レイヴァンや。頼みがあるんじゃが……」
「……はい」
村の外れの、丘の上。
大きな木の下に穴を掘った。
冬の土は、冷えて硬い。
クワを入れるたびに、鈍い音がする。
俺は、穴を掘るのには慣れている。
いくつ掘ったかは覚えていない。
戦場で、穴ならいくつも掘った。
埋めたのは、仲間や侵略した国の人間だ。
こんなふうに、寿命で眠るように逝った人間を埋めるのはいつ以来だろう。
思い出せなかった。
この手で何かを守って、その相手を土に返す。
そんなこと、俺の人生にはほとんどなかった。
土をかけながら俺は、それだけを考えていた。
セラは泣いた。
声を上げて、子供のように泣いた。
俺の服の裾を掴んで震えていた、あの晩とは違う。
ちゃんと、誰かの死を悲しんで泣いていた。
失くしたものの形を、この子は自分の手で覚えていく。
それを見て俺は、ひとつ思ってしまった。
いつかこの子は、俺のためにも、こうして泣くのだろうか。
考えないことにした。
だがその先に、もう一つ考えたくない理由があった。
この子が俺のために泣くとき、この子はもう、俺が何をした男か知っているかもしれない。
その涙が、悲しみなのか、別の何かなのか。
それは、俺には選べない。
俺には、そんな権利はない。
埋め終わるまで、ヨハンはずっと黙っていた。
あの、減らず口の男が。
一言も口をきかなかった。
膝が痛いとも、腰が痛いとも言わなかった。
ただ、掘り返された土をじっと見ていた。
全部が済んで、俺がクワを置くとヨハンは、ゆっくりと家のほうへ歩いていった。
その背中に俺は、何も掛けてやれる言葉を持たなかった。
その日から、ヨハンはあまり喋らなくなった。
畑にもあまり出なくなった。
家の前に椅子を出して、下がったままの屋根を、一日中眺めているようになった。




