第四十六話 慣れた
行商の男が村に来たのは、秋の終わりだった。
年に何度か、この男は辺境のこんな村まで行商に来る。
塩、鉄製品、針に糸。
冬の前の最後の買い物だ。
村の女たちが荷馬車を囲んで、あれをくれ、これはいくらだと騒ぎ始める。
マルタも来ていた。
「今年は塩を多めにおくれ。去年は足りなくてね」
「あいよ、婆さん。少しまけとくよ」
アンナは、干した毛皮を抱えてきていた。
夏のあいだに罠で獲った、鹿やイノシシの皮だ。
男はそれを一枚ずつ見て、指で毛を撫でる。
「ほお。嬢ちゃん、腕を上げたな。処理も見事だ。これはいい値で買うぜ」
「ほんと?」
「ああ、ほんとだとも。街の連中は、傷の少ないのを欲しがるんだ。たぶん、これはすぐ売り切れになっちまうだろうな」
行商人が笑いながら言うと、アンナが少しだけ得意そうな顔をした。
ニールの遺した罠が、この村の冬の足しになっている。
セラは、と言えば。
「おっちゃん! やっときた!」
「おう、嬢ちゃん。でかくなったなあ。また背ぇ伸びたろ」
「のびた! でも、アンナよりはまだちっちゃい」
「はっはっは。焦るな焦るな。まだ十歳にもなってないだろう? うちの息子なんて――」
男は、とにかくよく喋る。
自分の家族の話、遠い村の話、道で見た珍しいもの。
どこかの領主が代替わりしたとか、街道に新しい関所ができたとか——この辺境まで届かない話を、荷と一緒に運んでくる。
セラは口を開けてそれを聞いている。
この村で、外の風の匂いをさせているのは、この男くらいだ。
俺は、こういう男があまり得意じゃない。
得意ではないが、悪い男ではないのはわかる。
「あ、レイヴァンさん。今回も頼みますよ。レイヴァンさんだけが頼りなんですから」
「相変わらず、言葉に重みがないな」
「このくらいのほうが、親しみやすいでしょ?」
「はあ、わかった。準備しておく」
「よろしくお願いしますね」
男が発つ日、村の出口で落ち合った。
いつものことだ。
マルタが、干し芋を布に包んで持たせてくれた。
「森は、まだ大丈夫な時期だけどね。気をつけて行きなさいな」
「はい。行ってきます」
馬車が動き出そうとしたとき、セラが前の席によじ登った。
「わたしもいく!」
「セラ、危ないぞ」
「いいじゃん。レイもいるし」
マルタの言う通り、アンナとよく似てきた。
人の言うことなんて、聞きやしない。
「……わかった。そこから降りるなよ」
「はーい」
少しの間だ。
俺が横にいる。
それに、この道で何かが出たことは、この数年で一度もなかった。
連れていくことにした。
馬車がゆっくり進む。
セラと男は、ずっと喋っていた。
どこかの町の飯がうまいだとか、見たこともないくらいデカい魚が釣れただとか。
セラは、楽しそうに相槌を打っている。
「ねえ、おっちゃん。海って、ほんとにあるの?」
「あるとも。しょっぱい水が、見えねえ向こうまで続いてんだ。塩も取り放題だぞ」
「うそだあ。マルタのばっちゃんが塩は貴重だっていってたよ」
「ほんとだって。まあ、俺も実際に見たのは数回だけだけどな。ここからはちょっと遠いんだ」
「セラも、いつかみれるかな?」
「もちろんだ! なんならいつか、俺が連れてってやってもいいんだぞ。レイヴァンさんの護衛付きで」
「やったー!」
いつか、と男は軽く言う。
この子に「いつか」を約束してやれる人間がいるのは、悪いことじゃない。
俺には、それができないからだ。
今日も悪くない一日だ、と思いかけて、俺はやめた。
悪くない、と思うと、いつも何かが来る。
森の際に差しかかったときだった。
馬が、いきなり暴れ始めた。
「おっとと。どうどう。どうしたんだ?」
男が、馬をなだめている。
俺は、辺りを見回した。
藪の間から、目のようなものが光っている。
そいつは、ゆっくり出てきた。
体中に苔のようなものが生えている。
遠目には、大きい岩にしか見えない。
そいつが立ち上がって吠えた。
全体を見ると、熊のような見た目だ。
体長はそこまで大きくない。
俺と同じくらいだ。
だが、爪は鋭く牙もある。
一匹、か。
「モ、モースベアだ」
男が、馬車の上で震えながら口を開いた。
聞いたことのない魔物だ。
だが、そんなことはどうでもいい。
「セラ、そこから降りるなよ!」
馬車の縁を掴んで、俺は前に出た。
剣を抜く。
ひさびさの魔物との実戦だ。
素振りは、毎日欠かさずしていた。
なまってないといいが。
獣がこちらに向けて走ってきた。
俺は、モースベアを馬車から引き離すように移動した。
狙い通り、こちらを追いかけてきた。
距離が詰まる。
モースベアが飛びついてきた瞬間、その脇をすり抜けるように転がった。
こいつは、俺を一瞬見失った。
振り返った瞬間、剣を口に向けて突き刺した。
魔物は、少し痙攣して動かなくなった。
血の匂いが広がる。
久しぶりだった。
この匂いは。
振り返ると、セラが馬車の上から俺を見ていた。
いつもの目ではなかった。
俺が薪を割るのを見る目でも、飯を待つ目でもない。
言葉ではうまく言えないが、しっかりと俺を見ていた。
俺は、剣の血を拭いた。
もう、この子の前ではこんなことはしたくなかった。
この子が、あの夜のことをどれだけ覚えているのか俺には分からない。
だが血の匂いで、忘れているはずの何かが戻ってくるかもしれない。
それだけが怖かった。
「……いやあ」
男が、声を震わせて笑った。
「やっぱり、レイヴァンさんにお願いしてよかったですよ。しっかし、どこで覚えたんですか? あんな簡単に、魔物を倒すなんて」
「……たまたまだよ」
「またまた。やっぱりどっかの国の兵士さんですか? それとも、戦場を渡り歩く傭兵ですか?」
「……そんなのどうでもいいだろ。ほら、先を急ごう」
男は、それ以上は聞かなかった。
「いやあ、こりゃいい土産話が出来たな。魔物を一太刀。最強の剣士が辺境の村に。なんつって」
「やめてくれ。そんなたいした人間じゃない」
本当にたまたまだった。
相手はそこまで大きくなかったし、頭も悪かった。
一人で魔物と戦って、無傷で済んだのは、本当に運がよかった。
下手をすれば、死んでいた。
俺は、セラを見た。
あの子は、まだこっちを見ていた。
しばらく進んだところで、森を抜けた。
そこで男とは別れた。
次来るのは、たぶん春くらいになると言った。
帰り道、俺の横を歩くセラは、珍しく静かだった。
「レイ」
「なんだ?」
「レイは、こわくないの? あんなおっきいまもの」
「……そうだな。もう慣れた」
「ふうん」
慣れた、なんてことは、本当は言いたくなかった。
だが、それ以外に言えることを、俺は持っていない。
セラはそれきり、何も言わなかった。
歩きながら時々、俺の手のあたりを見ていた。
さっき、剣を握っていた手のあたりを。
連れてくるんじゃなかった。
そう思ったが、口には出さなかった。
この子が今、何を見て、何を考えているのか。
俺にはわからない。




