第四十五話 額を寄せて
夏の終わりの匂いがした。
刈り入れにはまだ少し早い。
それでも朝晩の風には、少しだけ乾いたものが混じりはじめる。
この土地に来てから、鼻からそういうものを感じるようになった。
俺は薪を割っていた。
斧を振り下ろすと、木が二つに割れて、乾いた音が森のほうへ抜けていく。
割ったそばから積み上げていった。
冬までに、この何倍もいる。
今からやっておくと、後が楽だ。
手は、もう迷わなかった。
この村に来たばかりの頃は、板を打つのも薪を割るのも、どこかぎこちなかった。
俺の手が覚えているのは、こういう仕事ではなかったからだ。
今はもう、体が勝手に動く。
そのことが、俺はまだうまく飲み込めずにいる。
どこかで、鶏が鳴いていた。
たぶん、マルタの家のほうだ。
朝の煙が、家々の屋根からまっすぐ立ちのぼっている。
風のない、いい朝だった。
「レイ!」
振り返ると、セラが立っていた。
両手に、木の実を抱えている。
赤いのと、黒いのと。
こぼれそうなのを、必死に胸で押さえている。
「みて。アンナととってきたよ」
「おお、そんなにか」
「そうだよ。森のちかくで。アンナが、いい場所しってるの」
セラは、よく喋るようになった。
あの子が最初に俺の服を掴んだ晩、口はきけなかった。
母親の名も、自分の名も、なにも。
それがいつの間にか俺を「レイ」と呼んで、木の実の採れる場所を得意げに話している。
「アンナは?」
「わなを見に行った。ひとりでへいきだって」
「また一人で行ったのか……」
あの森には、魔物が出る。
前にも、村人が一人で罠を見に行って、森に喰われた。
アンナには、そう言い聞かせているのに。
「いい加減、言うことくらい聞いてほしいもんだ」
「アンナならだいじょうぶだよ。ゆみが上手だからね」
まあ、なんだかんだ、いつもちゃんと帰ってくる。
どうせ、俺が止めても聞かないだろうしな。
斧を置いて、俺は木の実を覗き込んだ。
「この赤いのは?」
「これは食べられる。こっちの黒いのは、だめ。アンナがいってた」
「よく覚えたな。でも、食えないもんを持って帰ってくるなよ」
「はーい!」
セラは、赤い実を一粒食べた。
昼前、隣の畑の老人が、井戸のことで俺を呼びに来た。
「レイヴァン、すまんが。桶の縄が切れてな、底に落ちてしもうたんじゃ」
「わかりました。今行きます」
斧を立てかけて、ついていく。
井戸を覗くと、桶は暗い底に沈んでいた。
長い枝を下ろして、切れた縄の端に引っかける。
何度か探って、手ごたえがあったところで引き上げた。
老人は、何度も礼を言った。
若者が多ければ、こんなことで俺は呼ばれない。
この村に、年寄りを助けられる人はそう多くない。
いつからか、俺はその一つに数えられていた。
求めたわけでもないのに。
昼過ぎに、マルタが鍋を提げてやってきた。
「精が出るねえ。ほら、食べなさいな」
鍋の中は、芋と、名の知らない青菜。
湯気がまだ立っている。
「毎度、すみません」
「いいんだよ。あんたが村中の薪を割ってくれるんだから、このくらいは当たり前だよ」
「いえ、俺にできることなんてこれくらいですから」
「それにしても、セラも大きくなったねえ。ここに来たときは、あんたにしがみついてたのに」
「最近、言うことを聞かなくて困っているところです」
マルタは、目を細めて笑った。
「アンナの影響かねえ。まあ、親ってのは大変なんだよ。頑張りなさい」
「……はい」
親。
俺があの子の親。
そう言われるたびに、指先があの夜の感覚を思い出す。
しばらくすると、ヨハンも来た。
近ごろ膝が言うことをきかん、と会うたびに言う。
そのわりに去年、自分の家の屋根を一人で直した男だ。
減らず口だけは、まだまだ元気だ。
「あんまり気張るとな、腰にくるぞ。わしみたいにな」
「……ええ」
「聞いたかい、マルタ。ええ、だとよ。愛想のない男だ」
マルタが笑って、ヨハンの背中を叩いた。
「これでも、よくしゃべるようになった方じゃない」
「たしかにのお。ここに来たときは、えらい目つきの――」
二人のやりとりを聞いていると、どこの家の年寄りも同じだな、と思う。
俺の村にも、こういう世話好きな人達がいた。
母は、まだ生きているはずだ。
カルヴェンの畑で、芋を掘っているはずだ。
もう、帰れない。
帰れば、俺が何をしてきた男か、いつか知れる。
「そういえば、お父さん。もうすぐ行商の人が来る時期じゃなかったかしら?」
「おお、そうじゃった。アンナの集めた獲物の素材を整理せんとな」
「塩も買わないとねえ」
「また、おぬしもこき使われるかもしれんの」
「そうですね」
一年に数回、こんな辺境にも行商人が来る。
毎回、森の近くを通るのに、護衛をしてほしいと頼まれる。
自分で護衛を連れてこい、と言ったのだが、毎回一人で来る。
護衛に金を払うくらいなら、少しでも商品を仕入れたい。
そう言っていた。
俺にも報酬は払っていない。
俺が護衛をしてくれるから、この村にも来れる。と言っていた。
一応、村のためにはなっているみたいだ。
夕方近く、アンナが森から戻ってきた。
腰に、兎を一羽ぶら下げている。
ニールが使っていた罠を、そのまま継いだ。
あの男が死んだあと、誰も手をつけなかった罠を、この子が拾った。
「セラ。木の実、洗った? そのまま食べたらお腹こわすよ」
「え、もうぜんぶ食べたよ!」
「うそ。黒いのも?」
「うん! ちょっとにがかったけど」
「あ、あんた――」
「うそだよー!」
セラは、笑いながら走っていった。
「はああ? ちょっと、待ちなさい、セラーー!」
セラより六つ年上なのに、いつもからかわれている。
こうして見ていると、本当の姉妹のようだ。
しばらくして、セラを連れて戻ってきたアンナは、兎の始末を始めた。
皮を剥ぐ手つきに迷いがない。
セラは横にしゃがんで、じっと見ている。
「セラも、やってみる?」
「……いい。見てるだけ」
「あ、そう」
「なに?」
「別に。あんた、こういう時はいつも見てるだけだね」
「……うん」
アンナは笑って、それ以上すすめなかった。
無理にやらせないところが、この子のいいところだ。
二人を見ていると、たまに思う。
アンナは、父親を魔物に喰われた。
セラは、母親を——俺に殺された。
片方は、失くしたものの形を知っている。
もう片方は、知らない。
それでも二人は、こんな辺境の村で額を寄せて、兎のことやら木の実のことやらを話している。
似たような穴の空いた子供が、どういうわけかくっついていた。
……悪くない夕暮れだった。
悪くない、と思ったとき、いつも背中のあたりが少しだけ冷える。
こんなものを、俺が持っていていいのか、と。
斧を振り下ろす。
木が割れる。
音が、森へ抜けていく。
考えないことにした。
夜、火のそばで、セラは木の実を並べていた。
赤いのと黒いのを、色で分けている。
「なんだ。まだ捨ててなかったのか?」
「わすれてた。いまからわける。こっちはよくて、こっちは――」
火が、ぱちりと鳴った。
セラの手が止まって、それからぽつりと言った。
「わたしたちは、どこから来たの?」
その質問に、心臓が跳ねた。
「どうしたんだ、急に」
「アンナが、前はべつの場所にすんでたっていってた。よそからきたんだって。わたしたちもそうなんでしょ?」
この村にいる比較的若い連中は、どこかから来てここにいる。
ニールも、そうだと言っていた。
この子だけが、自分がどこから来たのかを知らない。
「南のほうだ」
「ふーん。遠い?」
「ああ、遠いな」
「帰らないの?」
「……帰らない」
嘘ではなかった。
本当でもなかった。
帰らない、ではない。
帰れない。
だがそれを言えば、なぜ帰れないのかを聞かれる。
この子に本当のことを話したことは、一度もない。
聞かれるたびに、当たり障りのないところで言葉を切ってきた。
この子に言えることが、俺にはほとんどないのだ。
セラは、それ以上聞かなかった。
聞いても答えないと、もう知っているのかもしれない。
ただ、火のほうへ体を寄せてきて、俺の腕に頭を預けた。
重くなっていた。
あの晩、はじめて抱き上げたときの重さとは、もう違う。
俺は、動かなかった。
動けなかった、が正しいのかもしれない。




