第三話 ヤコブの石
村に入る時は、真ん中を歩かない。
家と家の隙間は、上から石を落とすのにちょうどいい幅をしている。だから壁沿いを行く。
二組に割った。俺とヤコブが右。ゲルントとダルクが左。エイダンには本隊を預けて、道に待たせた。あいつなら心配ないだろう。
村に入る前、ヤコブが道端の石を一つ拾って、懐に入れていた。
「なんだそれ」
「験担ぎです。丸い石を拾って帰ると、無事に帰れるんですよ。アンセルの言い伝えです」
「効くのか?」
「自分はまだ死んでませんから」
「たしかにな。お前が生きて帰れたら、俺も試してみるか」
「ぜひ。部屋が石だらけになりますけどね」
なんてことない話だ。こういう時こそ、くだらない話をするくらいがちょうどいい。
最初の家の戸は開いていた。
開けたまま、閉めずに出て行ったらしい。普通ならありえない。
「小隊長殿」
ヤコブが顎で家の中を示した。
「ああ」
土間にかまどがあった。灰に手をかざす。
冷たい。だが、湿ってはいない。
「昨日の夜には落ちてるな」
「一日か二日ですね」
ヤコブが器を持ち上げた。豆が半分残っている。乾いて、縁にこびりついていた。
家の中を見回した。
寝床の毛布がない。鍋がない。斧がない。壺は残っている。臼も残っている。重いものだけが、きれいに残されていた。
これは襲われた家じゃない。
持てるものだけ持って出て行ったようだ。
二軒目も同じだった。三軒目も。
十五、六軒、全部そうだった。
山羊の囲いが空いていた。糞は新しい。連れて行ったんだ。あの細い道を、羊と山羊と老人を引き連れて。
「小隊長殿」
ヤコブの声が、さっきより低くなっていた。
「残党はここにいませんね」
「だな。いたら俺達はもう死んでる」
「ですね」
かまどの灰をもう一度見た。
――なぜ逃げた。
残党が村を焼いて逃げたなら分かる。連れ去ったなら分かる。村人が残党を匿っていて、露見を恐れて一緒に消えたのなら、それも分かる。
でも、この村は誰にも荒らされていない。
誰も殺されていない。血の跡もない。
村人は、自分の足で、荷物をまとめて、山を降りていった。
俺達が来ると知って。
それが分からなかった。
本当に、分からなかった。
カルヴェン村に帝国軍が来た年、村の誰も逃げなかった。逃げる理由がなかったからだ。兵が来て、名簿を作って、税の額を告げて、去った。それだけだった。それ以来、村を襲いに来る者はいなくなったと、母は言っていた。
畑を捨てて山を降りる。冬に。老人と山羊を連れて。
どれだけの覚悟がいるか、農村で育った人間なら分かる。
その覚悟を、この村の人間は、俺達を見るより前に決めていた。
「一旦戻るぞ」
俺は言った。
「三軒目まで見て終わりですか」
「見るべきものは見た。日が傾く前に本隊へ戻る」
「なにか嫌な感じがしますね。なんていうか、こう――」
「気にしすぎだ。村人が逃げた。それだけだ」
ヤコブは何も言わなかった。
この時、あいつの言葉に耳を傾けておけばよかったと、あとで思った。
村を出た。
本隊は道の先で待っている。村と本隊の間には、木のまばらに生えた開けた斜面があった。そこを横切って、エイダンのところへ戻る。
その途中だった。
右手の丘から、乾いた音が二つ。
一つは俺の頭の上を抜けた。もう一つは、前を歩いていたヤコブの首の後ろに刺さった。
声もなく膝から落ちた。
「伏せろ!」
言い終わる前に、ゲルントとダルクが伏せていた。こいつらも従軍歴が長い。体が勝手に動く。
丘の中腹、背の低い木の茂み。二十歩ほど上。射手が二人、いや三人か。
この高低差は厄介だ。こっちは剣しかない。無策で登れば格好の的だ。
「ゲルント、ダルク。村のほうへ回れ。丘の裏から本隊と挟撃をかけろ」
「小隊長は?」
「俺が引きつける」
「死にますよ」
「かもな。行け」
二人が身を低くして、村の側から丘の裏手へ走っていった。
俺は腰の角笛を吹いた。短く二回。包囲の合図だ。エイダンならすぐ動く。
それから立ち上がって、斜面の真ん中へ出た。
やっちゃいけないことだ。訓示で自分が言ったばかりのことでもある。
でも、弓は続けざまには撃てない。あの高さからここを狙うなら、次の一本まで三秒はかかる。
一本目が肩の横を抜けた。
二本目が足元の泥に刺さった。
三本目は来なかった。
三人じゃなく、二人だ。
丘が左右から揺れた。
村の側からゲルントとダルク。道の側から、本隊を率いたエイダン。二人の射手は、挟まれた。
悲鳴が一つ。木の折れる音と、何かが転がり落ちてくる音。
もう一人が立ち上がって逃げようとしたところを、エイダンが足を払った。
全部で、十秒ほどだった。
残党は二人とも生きていた。片方は腕が折れている。もう片方は、ゲルントに顔を蹴られて前歯がない。
二人とも、若かった。
リーゼより少し上、というくらいだ。
装備は農具に毛が生えた程度だった。片方の弓は、弦を張り替えた跡がいくつもあった。何度も直して使っている弓だ。
どうやらこいつらは、丘の上から俺達を四人だと思って撃った。この先に二十人が控えていると知っていたら、たぶん矢は放たなかった。
殺すつもりだったんじゃない。一矢浴びせて逃げるつもりが、逃げ道の勘定を間違えただけだ。
ヤコブは死んでいた。矢は首の後ろから入っていた。
名簿の五枚目。三十一歳。アンセル州の出身。十五年前に帝国に編入された土地の男が、今、帝国の兵として、征服された土地の若造に殺された。
詠唱者がいれば、と一瞬考えて、やめた。
インカント隊が回ってくるのは軍団の攻城戦だけだ。詠唱のできる人間は三人か五人で一組、それをこんな小隊に貸すほど帝国は暇じゃない。
それに、いたところで同じだ。
治癒の魔法は、開いた傷を塞ぐだけのものだ。抜けた血は戻らないし、止まった心臓は動かない。俺は長い軍歴で、魔法に助けられた男を三人知っている。間に合わなかった男は、数えていない。
前任と同じ死に方だった。
二十四人だ。減らさずに返せ。
中隊長の声が、なぜかその時に聞こえた。
俺は三日で一人減らした。
「小隊長殿」
リーゼだった。
本隊にいたから、村での戦闘は見ていない。ヤコブの遺体を見ている。顔が白かった。だが、吐いてはいなかった。初めて仲間の死を見たにしては、よく耐えている。
「大丈夫か?」
「……はい」
「よく見ておけ」
それしか言えなかった。今なら別の言い方ができる気がするが、当時の俺は二十七で、部下が死ぬのはその日が初めてだった。
ヤコブの懐から、あの丸い石が出てきた。
握らせてやろうかと思って、やめた。死んだ人間に験担ぎもないだろう。
俺はその石を、自分の懐に入れた。
なんとなくだ。深い意味はなかった。
女が見つかったのは、その後だ。
村へ戻って家を検分していた時、四軒目の床下から出てきた。
六十は過ぎている。足が悪い。だから置いていかれたんだと、すぐに分かった。置いていったというより、本人が残ったんだろう。あの道を降りるのは無理だ。
膝を折って、目の高さを合わせた。母と同じくらいの年に見えた。
「危害は加えない。答えてくれ」
女は何も言わなかった。
「村の者はどこへ行った」
「……」
「なぜ逃げた」
女が俺を見た。
怯えてはいなかった。憎んでもいなかった。
もっと単純な目だった。何を聞かれているのか分からない、という目だ。
「あんたらが来るからだよ」
そう言った。
それだけだった。
当たり前のことを聞かれた人間の言い方だった。空はなぜ青いのか、と聞かれた時のような。
「俺達は略奪をしない。救いに来たんだ」
俺は言った。本当のことだ。俺は何年もそれを見てきた。実際、この州の市場は三週間で再開している。
女は答えなかった。
反論もしなかった。俺の言葉が嘘だとも言わなかった。ただ、目をそらして、床の一点を見た。
言い返されたなら、俺は言い返せた。
罵られたなら、殴られても仕方がないと思えた。
何も返ってこなかったことだけが、ずっと残った。
その日の夜、俺は靴を脱いで火の近くに置いた。
豆が煮えるのを待ちながら、ゲルントが何か軽口を叩き、二、三人が笑った。ヤコブの名前は誰も出さなかった。戦場とはそういうものだ。
自分の手を見ていた。
勝ったんだ。待ち伏せを潰して、二人を捕らえて、村を一つ検分した。報告に書けることは全部ある。
なのに、何かを間違えた気がして仕方がなかった。
どこで間違えたのかが、どうしても見つからなかった。
その時の俺は、それを疲れのせいにした。
懐の石が、歩くたびに脇腹に当たった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
主人公はこの先、少しずつ変わっていきます。その過程を見届けてもらえたら嬉しいです。
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