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業の福音 〜征服こそ正義だと信じていた男は、その手を汚し続けた〜  作者: 星喰ゆう
第一章 ヴェッセル掃討戦

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第三話 ヤコブの石

 村に入る時は、真ん中を歩かない。


 家と家の隙間は、上から石を落とすのにちょうどいい幅をしている。だから壁沿いを行く。


 二組に割った。俺とヤコブが右。ゲルントとダルクが左。エイダンには本隊を預けて、道に待たせた。あいつなら心配ないだろう。


 村に入る前、ヤコブが道端の石を一つ拾って、懐に入れていた。


「なんだそれ」

「験担ぎです。丸い石を拾って帰ると、無事に帰れるんですよ。アンセルの言い伝えです」

「効くのか?」

「自分はまだ死んでませんから」

「たしかにな。お前が生きて帰れたら、俺も試してみるか」

「ぜひ。部屋が石だらけになりますけどね」


 なんてことない話だ。こういう時こそ、くだらない話をするくらいがちょうどいい。



 最初の家の戸は開いていた。

 開けたまま、閉めずに出て行ったらしい。普通ならありえない。


「小隊長殿」


 ヤコブが顎で家の中を示した。


「ああ」


 土間にかまどがあった。灰に手をかざす。

 冷たい。だが、湿ってはいない。


「昨日の夜には落ちてるな」

「一日か二日ですね」


 ヤコブが器を持ち上げた。豆が半分残っている。乾いて、縁にこびりついていた。


 家の中を見回した。


 寝床の毛布がない。鍋がない。斧がない。壺は残っている。臼も残っている。重いものだけが、きれいに残されていた。


 これは襲われた家じゃない。

 持てるものだけ持って出て行ったようだ。


 二軒目も同じだった。三軒目も。

 十五、六軒、全部そうだった。


 山羊の囲いが空いていた。糞は新しい。連れて行ったんだ。あの細い道を、羊と山羊と老人を引き連れて。


「小隊長殿」


 ヤコブの声が、さっきより低くなっていた。


「残党はここにいませんね」

「だな。いたら俺達はもう死んでる」

「ですね」


 かまどの灰をもう一度見た。


 ――なぜ逃げた。


 残党が村を焼いて逃げたなら分かる。連れ去ったなら分かる。村人が残党を匿っていて、露見を恐れて一緒に消えたのなら、それも分かる。


 でも、この村は誰にも荒らされていない。

 誰も殺されていない。血の跡もない。

 村人は、自分の足で、荷物をまとめて、山を降りていった。


 俺達が来ると知って。


 それが分からなかった。

 本当に、分からなかった。


 カルヴェン村に帝国軍が来た年、村の誰も逃げなかった。逃げる理由がなかったからだ。兵が来て、名簿を作って、税の額を告げて、去った。それだけだった。それ以来、村を襲いに来る者はいなくなったと、母は言っていた。


 畑を捨てて山を降りる。冬に。老人と山羊を連れて。

 どれだけの覚悟がいるか、農村で育った人間なら分かる。


 その覚悟を、この村の人間は、俺達を見るより前に決めていた。


「一旦戻るぞ」


 俺は言った。


「三軒目まで見て終わりですか」

「見るべきものは見た。日が傾く前に本隊へ戻る」

「なにか嫌な感じがしますね。なんていうか、こう――」

「気にしすぎだ。村人が逃げた。それだけだ」


 ヤコブは何も言わなかった。

 この時、あいつの言葉に耳を傾けておけばよかったと、あとで思った。



 村を出た。


 本隊は道の先で待っている。村と本隊の間には、木のまばらに生えた開けた斜面があった。そこを横切って、エイダンのところへ戻る。


 その途中だった。


 右手の丘から、乾いた音が二つ。

 一つは俺の頭の上を抜けた。もう一つは、前を歩いていたヤコブの首の後ろに刺さった。


 声もなく膝から落ちた。


「伏せろ!」


 言い終わる前に、ゲルントとダルクが伏せていた。こいつらも従軍歴が長い。体が勝手に動く。


 丘の中腹、背の低い木の茂み。二十歩ほど上。射手が二人、いや三人か。

 この高低差は厄介だ。こっちは剣しかない。無策で登れば格好の的だ。



「ゲルント、ダルク。村のほうへ回れ。丘の裏から本隊と挟撃をかけろ」

「小隊長は?」

「俺が引きつける」

「死にますよ」

「かもな。行け」


 二人が身を低くして、村の側から丘の裏手へ走っていった。


 俺は腰の角笛を吹いた。短く二回。包囲の合図だ。エイダンならすぐ動く。

 それから立ち上がって、斜面の真ん中へ出た。


 やっちゃいけないことだ。訓示で自分が言ったばかりのことでもある。

 でも、弓は続けざまには撃てない。あの高さからここを狙うなら、次の一本まで三秒はかかる。


 一本目が肩の横を抜けた。

 二本目が足元の泥に刺さった。

 三本目は来なかった。


 三人じゃなく、二人だ。



 丘が左右から揺れた。

 村の側からゲルントとダルク。道の側から、本隊を率いたエイダン。二人の射手は、挟まれた。


 悲鳴が一つ。木の折れる音と、何かが転がり落ちてくる音。

 もう一人が立ち上がって逃げようとしたところを、エイダンが足を払った。


 全部で、十秒ほどだった。



 残党は二人とも生きていた。片方は腕が折れている。もう片方は、ゲルントに顔を蹴られて前歯がない。


 二人とも、若かった。

 リーゼより少し上、というくらいだ。


 装備は農具に毛が生えた程度だった。片方の弓は、弦を張り替えた跡がいくつもあった。何度も直して使っている弓だ。


 どうやらこいつらは、丘の上から俺達を四人だと思って撃った。この先に二十人が控えていると知っていたら、たぶん矢は放たなかった。


 殺すつもりだったんじゃない。一矢浴びせて逃げるつもりが、逃げ道の勘定を間違えただけだ。


 ヤコブは死んでいた。矢は首の後ろから入っていた。


 名簿の五枚目。三十一歳。アンセル州の出身。十五年前に帝国に編入された土地の男が、今、帝国の兵として、征服された土地の若造に殺された。


 詠唱者がいれば、と一瞬考えて、やめた。


 インカント隊が回ってくるのは軍団の攻城戦だけだ。詠唱のできる人間は三人か五人で一組、それをこんな小隊に貸すほど帝国は暇じゃない。


 それに、いたところで同じだ。


 治癒の魔法は、開いた傷を塞ぐだけのものだ。抜けた血は戻らないし、止まった心臓は動かない。俺は長い軍歴で、魔法に助けられた男を三人知っている。間に合わなかった男は、数えていない。


 前任と同じ死に方だった。


 二十四人だ。減らさずに返せ。

 中隊長の声が、なぜかその時に聞こえた。


 俺は三日で一人減らした。


「小隊長殿」


 リーゼだった。


 本隊にいたから、村での戦闘は見ていない。ヤコブの遺体を見ている。顔が白かった。だが、吐いてはいなかった。初めて仲間の死を見たにしては、よく耐えている。


「大丈夫か?」

「……はい」

「よく見ておけ」


 それしか言えなかった。今なら別の言い方ができる気がするが、当時の俺は二十七で、部下が死ぬのはその日が初めてだった。


 ヤコブの懐から、あの丸い石が出てきた。

 握らせてやろうかと思って、やめた。死んだ人間に験担ぎもないだろう。


 俺はその石を、自分の懐に入れた。

 なんとなくだ。深い意味はなかった。



 女が見つかったのは、その後だ。


 村へ戻って家を検分していた時、四軒目の床下から出てきた。


 六十は過ぎている。足が悪い。だから置いていかれたんだと、すぐに分かった。置いていったというより、本人が残ったんだろう。あの道を降りるのは無理だ。


 膝を折って、目の高さを合わせた。母と同じくらいの年に見えた。


「危害は加えない。答えてくれ」


 女は何も言わなかった。


「村の者はどこへ行った」

「……」

「なぜ逃げた」


 女が俺を見た。


 怯えてはいなかった。憎んでもいなかった。

 もっと単純な目だった。何を聞かれているのか分からない、という目だ。


「あんたらが来るからだよ」


 そう言った。


 それだけだった。

 当たり前のことを聞かれた人間の言い方だった。空はなぜ青いのか、と聞かれた時のような。


「俺達は略奪をしない。救いに来たんだ」


 俺は言った。本当のことだ。俺は何年もそれを見てきた。実際、この州の市場は三週間で再開している。


 女は答えなかった。

 反論もしなかった。俺の言葉が嘘だとも言わなかった。ただ、目をそらして、床の一点を見た。


 言い返されたなら、俺は言い返せた。

 罵られたなら、殴られても仕方がないと思えた。


 何も返ってこなかったことだけが、ずっと残った。



 その日の夜、俺は靴を脱いで火の近くに置いた。


 豆が煮えるのを待ちながら、ゲルントが何か軽口を叩き、二、三人が笑った。ヤコブの名前は誰も出さなかった。戦場とはそういうものだ。


 自分の手を見ていた。

 勝ったんだ。待ち伏せを潰して、二人を捕らえて、村を一つ検分した。報告に書けることは全部ある。


 なのに、何かを間違えた気がして仕方がなかった。

 どこで間違えたのかが、どうしても見つからなかった。


 その時の俺は、それを疲れのせいにした。


 懐の石が、歩くたびに脇腹に当たった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

主人公はこの先、少しずつ変わっていきます。その過程を見届けてもらえたら嬉しいです。


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