第三十八話 森のほう
板と板の隙間から、空が見えた。
夏の終わりの長雨で、屋根の一部が腐って抜けた。
放っておけば、冬の雪がそのまま家の中へ落ちてくる。
俺は、村の人から借りた板を担いで、屋根に登った。
登ってみると、傷んでいるのは一枚どころではなかった。
腐った板を剝がして、新しいのを打った。
釘が、なかなか真っ直ぐ入らない。
この一年で、上達はしたほうだと思う。
十年以上、人を殺すことが仕事だった。
家を直すことよりも、人を殺すほうが慣れている。
手に染み付いた感覚は、そう簡単には消えない。
それでも、昼を過ぎる頃には、空の見える隙間が一つずつ塞がっていった。
下から小さな足音がした。
セラが家から出てきて、屋根を見上げていた。
この一年で、少し背が伸びた。
柱に刻んだ、あのいびつな線を、もう追い抜いている。
「登ってくるなよ。危ないぞ」
そう言うと、セラは、口を少しだけ動かした。
「……レイ」
俺の名を呼んだ。
半分だけの、名前を。
この子が、また声を出すようになったのは、雪が解けた頃からだ。
最初は、ほとんど聞き取れないような音だった。
今も、たくさんは喋らない。
簡単な単語を一言。あと、レイ。
それくらいだ。
母を呼ぶ言葉は、一度も聞いていない。
それについて、俺はなにも思わないことにしている。
思ったところで、どうにもならない。
「どうした?」
「レイ、おなか……」
「ああ、もうそんな時間か」
少しずつでも、自分のやりたいことを言ってくれるのは助かる。
子育ての経験なんかないからな。
ゲルントなら、もっとうまくこの子を扱ったんだろうか。
俺は金槌を置いて、屋根の縁に腰を下ろした。
「おや、セラちゃん。お父さんのお手伝いかい?」
マルタがやってきた。
この村の人には、俺がセラと血の繋がりが無いとは言っていない。
だから、みんなが「お父さん」と呼ぶたびに、体が強張る。
「精が出るねえ。ほら、降りといで。食べてからにしな」
今日も、昼飯を持ってきてくれたみたいだ。
籠の中には、蒸かした芋と塩をひとつまみ。それと、干した木の実が少し。
この村の人は、そういうことをする。
頼んでもいないのに、飯を運んでくる。
俺はいまだに、それに慣れない。
俺は屋根を降りて、家の前の椅子に腰かけた。
セラが、俺の隣にくっついて座る。
芋を半分に割って、柔らかいほうを渡してやった。
「セラちゃんや、あんたいい加減、お父さんって呼んであげなさいな」
顔には出さなかった、と思う。
「……いいんです。呼び方なんて。それに、親しい奴はそう呼ぶんで」
「あんたがそう言うなら構わないけど。あたしのことは、おばあちゃんって呼んでもいいんだよ、セラちゃん」
セラは、少し笑って首を傾げていた。
マルタは、それ以上詮索しなかった。
親しい奴、か。
口に出してから、少し、可笑しくなった。
俺と親しい連中は、もう一人も残っていない。
ゲルントも、ダルクも、エイダンも。
みんな、故郷じゃない地面の下だ。
エイダンにいたっては、墓標もない。
俺を「レイ」と呼ぶのは、俺に母親を殺された子供だけだ。
そういえば、リーゼはあれからどうなったんだろう。
俺を逃がしたことが知られたら、ただでは済まない。
最悪、エイダンと同じ運命を辿る。
あの子がいなかったら、俺とこの子はここまで来られなかった。
飯を食い終える頃、村の男が二人、道を歩いてきた。
一人は、ヨハンだ。
もう一人は、ハンス。
ガタイのいいおっさんで、この村では、比較的若い部類に入る。
「今日は絶好の仕事日和じゃのお、レイヴァン」
「ええ、まあ」
「流れ者のわりには、よく働くじゃねえか」
「……どうも」
ハンスは、俺の顔を、それから手をじろりと見た。
人を値踏みする目だ。
たぶん、悪意はないのだろう。
「ずいぶん、手荒い仕事をしてきたみたいだな」
「……ただの木こり、ですよ」
「ふん。木こりの手じゃねえな、それは」
そう言って、ハンスは、少し笑った。
それ以上は、聞かなかった。
この村の年寄りは、みんなそうだ。
詮索をしない。
よそから流れてきた人間に、いちいち身の上を訊いていたら、キリがないと知っている。
俺のような人間には、都合がよかった。
都合がいいと思うたびに、後ろめたかった。
「そういやあ、ハンス。お前、また森に行くんか」
「ああ。罠を、見に行く。冬が来る前に、いくつか仕掛けとかんとな。去年と違って、今年の冬は長くなりそうだ」
「去年は、今までにないくらい暖かかったからのお。ほとんど雪も降っとらんかったし」
「ああ、こういう冬の後は、決まって厳しい冬が来るからな」
「あんまり奥まで行くんじゃないぞ」
「わかっとる。ガキじゃねえんだ」
森、と聞いて、俺は北のほうへ目をやった。
村の外れ、畑の尽きた先に、黒い森がある。
その向こうは地図にもない、人の住まない土地だ。
魔素が濃く、魔物が湧く。
「ハンスさん。去年はほとんど魔物が出ませんでしたよね」
俺は、何気なく聞いた。
「暖かい冬だと、こっちまでは来ないんだ。食料があるからな」
「食料がなくなったら?」
「それは――」
ヨハンが、後を引き取った。
「何年か前の冬は、ひどかったのお。群れで来おった。あん時ゃ、村の若いのが、みんな……」
ヨハンは、そこで言葉を切って、乾いた笑いを浮かべた。
悲しげというより、もう済んだことという顔だった。
「まあ、あれからあんな大群は来とらん。今年もいつもの通りじゃろ。何匹か下りてきて、罠にかかって、それで終いよ」
「そうだといいですね」
「あんたが、いてくれるしのお」
ヨハンが、俺の腰を見た。
剣は家の中だ。
今は金槌しか持っていない。
それでもこの爺さんの目には、俺の腰に剣が見えているみたいだ。
腕の立つのがいてくれる。
それだけで安心して眠れる。
この村の年寄りたちは、本気でそう思っている。
俺はそれに、うまく応える言葉を持たなかった。
その晩、飯を食って、火を落とす前に、直した屋根を中から見上げた。
昼間、板を打ったあたりは、もう空が見えなかった。
これで雪は入ってこない。
少なくとも、この冬は。
悪くない出来だと思った。
人を殺す以外のことで、何かを「悪くない」と思ったのは久しぶりだった。
セラは、小さいほうのベッドで、もう寝息を立てていた。
死んだ子供の寝ていた場所だ。
俺はいまだに、そこにこの子を寝かせるたび、少しだけ息が詰まる。
それでも、他に寝かせる場所はなかった。
俺は火のそばに横になった。
屋根の下は、暖かかった。
ハンスが戻っていないと分かったのは、次の日の昼だった。
森へ罠を見に行ったきり、朝になっても帰らない。
村の男が数人、森の際まで見に行った。
俺も、剣を持って向かった。
森の入り口に、ハンスの籠が落ちていた。
罠にかかったと思われる兎が、そのままになっていた。
籠の脇の草が、黒く濡れていた。
血だ。
まだ、そう古くない。
その先は、森の中へ点々と続いて、やがて消えていた。
男たちは、それ以上奥へは入らなかった。
俺も止められた。
「よせ。あんたでも無理だ」
「奥は、あいつらの庭だ」
みんな分かっていた。
ハンスは、もう戻らない。
誰も泣かなかった。
ヨハンが、落ちていた籠を拾い上げて、中の兎を取り出した。
「……あれだけ言ったのに、馬鹿者が」
そう言って、兎を自分の籠に移した。
それが、ハンスへの弔いのようだった。
俺には、その乾き方が分かる気がした。
この村は、こうやって、少しずつ人を減らしてきたんだろう。
何年か前の、大群のときも。
それから毎年、一人か二人。
森が、腹を空かせるたびに。
済んだことという顔で、村へ引き返していく。
俺も、剣を納めてその後についた。
振り返ると、森のほうから冷たい風が吹いていた。
もうじき、冬が来る。
俺は、自分からこの土地を選んだ。
帝国の来ない、安全な場所を。
その安全が、どういう値段のものか、ようやく分かりかけていた。
家に戻ると、セラが駆け寄ってきた。
俺の服を掴んだ。
俺は、その頭に手を置いた。
人を殺した手を。
ハンスを助けに行けなかった手を。
この子だけは。
そう思う自分の身勝手さに、少しだけ笑いそうになった。




