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業の福音 〜征服こそ正義だと信じていた男は、その手を汚し続けた〜  作者: 星喰ゆう
第三章 北へ

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第三十五話 暖かい場所

 その夜は、長かった。


 女は一睡もしなかった。

 俺もしなかった。


 セラの熱は、上がったり下がったりを繰り返した。

 女はそのたびに、額の布を替えて、水を飲ませて、汗を拭いた。


 俺は、言われるままに水を汲み、薪をくべた。

 それくらいしか、できることがなかった。


 燃える薪の明かりで、女の手元をずっと見ていた。


 布の絞り方。当てる場所。水の飲ませ方。

 俺が知らなかったことの一つ一つを、この人は自然としていた。


 ふと、自分の母親のことを思い出した。


 俺が熱を出した時も、こんな風に看病してくれていたのだろうか。


「このくらいの歳には、みんな熱が出るもんだ。心配ないよ」


 女は急に話し出した。


「父親がそんな顔してちゃいけないよ。もうちょっと、しっかりしなきゃね」

「……すみません」


 父親。

 そうか。そう見えるのか。


「うちの旦那も、よくそんな顔してたよ。息子が熱を出しただけで大騒ぎさ。六歳の時に――」


 女は、楽しそうに話している。昔の記憶を紡ぐように。


「——困ったもんだよ。やっぱり男は、子育てでは母親に勝てないよ。そういえば、母親はどうしたんだい?」


 その質問を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。


 どう答えればいい。


 母親を殺した。それが事実だ。


 その事実を、正直に伝えたらどうなる。


 言葉に詰まった。


「……亡くなりました」


 俺は、ふり絞るように言った。声が震えていたのが、自分でもわかった。


「そうかい……可哀想に。あんたも、この子も」


 そう言って、女はセラの頭を撫でた。


 嘘は言っていない。


 母親は死んだ。俺が殺した。


 可哀想、か。


 俺はそんな言葉をかけられる人間じゃない。


 この国の人を踏みにじって、母親を殺して、その子供を連れて、軍から逃げているだけの、ただのクソ野郎だ。


 軍装を埋めても、今までしてきた事実は消せない。


 気づいたら、唇から血が出ていた。




 空が白み始めた頃、セラの様子が落ち着いてきた。


 浅くて速かった呼吸が、少しずつ深くなっていく。

 女が、汗を拭きながら小さく頷いた。


「峠は、越えたね」


 その言葉の意味が、すぐには分からなかった。

 分かった時、膝から力が抜けた。


 この子は、死なない。


「あらあら、しっかりなさいな。ほら、そこに座りなさい」

「はい。ありがとうございます」


 女が指さした椅子に、腰を掛けた。


 セラは、眠っていた。

 規則正しい、子供の寝息。


 俺は、大きく息を吐いた。

 ここに来てから、ずっと止めていた気がした。


 朝になって、女は粥を出してくれた。


「悪いねえ。こんなものしかなくて」


 薄い麦の粥だ。塩が少し。

 それでも、こんなに旨いものを、久しく食っていなかった。


「おいしいです。とても」

「そうかい。ゆっくりお食べ」


 食いながら、家の中をぼんやり見ていた。


 壁に、木彫りの小さな馬が、二つ並んでいる。

 子供が作ったような荒い出来だ。


 棚には、男物の上着が、畳んで置いてあった。


 この家には、旦那と息子がいるはずだ。

 この人はそう話していた。


 俺はまだ顔を見ていない。


「息子と、旦那のだよ」


 俺の視線に気づいて、女が言った。


「そうですか。今はどこに?」

「王都に、行っててね」


 手が、止まった。


「……なんで、王都に?」


 なんとか、そう聞いた。声が、上ずらないように。


「帝国の兵隊が攻めてくるっていうからね。志願したんだ。国を守るんだって、二人して出ていったよ」


 女は、笑った。

 困ったような、それでいて、少し誇らしげな笑いだった。


「でもね、大丈夫らしいんだよ。王都は堅いから。追い払えるって。じきに自慢話でも持ち帰って、村の人を困らせるはずさ。何人倒したんだ、とかね」


 追い払える。


 俺は、粥の入った器を見ていた。


 王都は落ちた。

 俺が、その中にいた。

 内通者によって門が開かれ、王宮まで駆け上がって、何人も殺した。


 この家の男達が守ろうとした王都を、攻め落とした側に俺はいた。

 あの城で俺が斬った男の中に、この人の息子か、旦那がいなかったと、誰に言える。


「……そうですか」


 それしか、言えなかった。


 本当のことを言えば、この人はどうなるだろう。

 俺が帝国の兵士だと言えば、殺されるだろう。セラはどうなるか。


 どちらにしても、口には出せなかった。


 言わないのは、慈悲じゃない。


 俺が怖いだけだ。


 この人の顔が変わるのを、見たくなかった。


 だから黙って、旨い粥を食った。

 人殺しの口で。


「そういえば、どこに行こうとしてたんだい?」

「……行く宛はありません。少し遠くに行きたくて」

「そうかい。何日でも泊っていっていいんだからね」

「いや、そんなにお世話になるわけには」

「男手が不足してるんだよ。ちょうど収穫の時期だからね。手伝ってくれると助かるんだよ」


 王都が制圧されたら、じきにここにも兵士がやってくる。

 ヴェッセルで、俺達がしたように。


 兵士が制圧をして、クストディアの連中が人を査定する。

 今まで、嫌というほどやってきたことだ。


 もし、俺の顔を知っている奴が来たら。

 もし、セラが王女だと知られたら。


 ここには長居できない。

 かといって、今すぐ出ることも出来ない。


「……ありがとうございます」



 その日は、その家で休ませてもらった。


 女は、セラに乾いた服を着せ、湯を使わせ、腹いっぱい食わせた。

 まるで、自分の孫みたいに。


「あんたも、傷をみせてごらん」

「傷?」

「隠してもわかるよ。歩き方でね」

「たいしたことありません。大丈夫です」

「うちの息子もよく言ってたよ。ほら、早く見せなさい」


 女は、無理やり服を脱がせて傷を治療してくれた。


「……あんた、ずいぶん苦労してきたんだね」


 女は、俺の肩をそっと叩いた。



 夜になって、セラはまた眠った。

 熱は、もうなかった。


 俺は眠らずに待った。

 女の寝息が聞こえてくるのを。


 夜明け前に、セラを抱え上げた。

 少し身じろぎしたが、起きなかった。


 棚の、男物の上着をもう一度見た。


 あれを着る二人が、この家に帰ってくることは、たぶんない。

 それを知っているのは、この村で、俺だけだ。


 そして俺は、それを言わずに出ていく。


 せめて何か、置いていけるものはないかと思った。


 だが、俺には何もなかった。

 この人に返せるものが、何一つなかった。


 俺には、奪うことしかできない。


 扉をそっと開けた。


 外はまだ暗い。

 雨は、上がっていた。

 冷たい空気が、頬を刺した。


 振り返らなかった。


 振り返ったら、動けなくなる気がした。


 あんなに暖かい場所を、この子から遠ざけていく。

 俺といる限り、この子にああいう場所はないのだろうか。

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