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業の福音 〜征服こそ正義だと信じていた男は、その手を汚し続けた〜  作者: 星喰ゆう
第三章 北へ

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第三十四話 綺麗な名前

 あれから、二日が過ぎた。


 盗んだ服は、思ったより役に立った。

 遠くから見られても、帝国兵、ましてや王女には見えないだろう。


 ただの親子連れ。

 腹を空かせた、どこにでもいる流れ者の親子。


 村で盗んだ野菜は、もう無い。


 最初に、俺がそのままかじった。

 硬くて、少し辛かった。


 だから、柔らかくなるまで煮て、この子に食べさせた。


 気に入ったのか、一人で一本近くを食べてしまった。


 この体のどこに、そんなに入ったのか。

 そんなことを考えていると、少し気が楽になった。


 二日目の夕方から、低くて重い雲が辺りを覆った。


 雨だ。


 秋の雨は冷たい。

 降り出すと、すぐには止まない。

 ヴェッセルで、嫌というほど知った。


 濡れた体は、芯から冷える。

 寒さは、傷より先に人を殺す。


 雨宿りできる場所を探した。


 だが、この辺りは木がまばらで、岩陰の一つもない。

 畑と、低い草ばかりだ。


 子供を上着で包んで、抱え込んだ。

 俺は慣れている。せめて、この子だけは。


 だが、上着もすぐに濡れた。


 屋根になりそうな場所を求めて、急いだ。


 だが、日が沈んで辺りが暗くなっても、見つからなかった。


 腕の中の子供が、震えているのに気づいた。

 寒さの震えじゃなかった。もっと、細かい。


 額に、手を当てた。


 熱い。


 子供の体が、燃えるように熱かった。

 息が浅くて、速い。

 目は半分閉じて、俺を見ているのか、どこも見ていないのか、分からなかった。


 どうすればいい。


 俺は、人の熱の下げ方を知らなかった。


 人の殺し方なら、いくらでも知っている。

 首の落とし方も、血の止め方も、痛みの与え方も。


 だが、熱を出した子供に、何をしてやればいいのか。

 そんなことは、誰も教えてくれなかった。


 俺には妹がいた。


 母の再婚相手との、年の離れた妹。

 この子と同じくらいの頃、熱を出して、母が一晩中看ていた。


 俺は、その部屋には入らなかった。

 もうあの家に、自分の居場所はないような気がして。

 あの時、母が何をしていたのか、俺は、見ていなかった。


 見ておけばよかった。あの夜を。


 このままじゃ、この子は死ぬ。


 震える膝を抑えて、足を進めた。

 俺の体も、とっくに限界だった。


 だが、そんなことはどうでもよかった。



 しばらく行った先に、村の灯りらしきものが見えた。


 前に行った村では、帝国の紋章を背負っていた。

 俺の居場所はないと思っていた。


 今は違う。


 普通の旅人のような服装。

 村に溶け込める。

 自分がしたことに目をつむれば。


 腕の中の子供を見た。

 浅い呼吸をしている。体が熱い。


 今は、そんな綺麗ごとを言ってはいられない。



 いちばん近い家の扉を叩いた。

 雨の音に、負けないように。何度も。


 扉が少し開いた。


 中から、老いた女が顔を出した。

 手に持ったランプの明かりが、俺と、腕の中の子供を照らした。


 女の目が、細くなった。

 当然だ。夜中にずぶ濡れの男が、扉を叩いている。


「……す、すみません。こ、子供が、熱を」


 自分でも驚くほど、言葉が出てこなかった。


 女は、俺の顔を見た。


 それから、腕の中を見た。

 子供の赤い顔と、浅い息を。


「……可哀そうに。早くお入り」

「いいんですか?」

「いいよ。どうせあたし一人だからね」

「ありがとうございます」


 家の中は、暖かかった。


 かまどに、火が入っていた。

 その火のそばに、俺は通された。


「ほら貸して、あんたはそこに座ってなさいな」

「は、はい」


 女は、慣れた手つきで動いた。

 濡れた子供の服を脱がせ、乾いた布で体を拭き、水を少しずつ飲ませる。


 額に冷たい布を、当てた。

 俺が何一つ知らなかったことを、この人は、全部知っていた。


 俺は、ただ突っ立っていた。

 人を殺すことしかしてこなかった手は、こういう時、何の役にも立たない。


「この子の、名前は?」


 女が、額の布を替えながら聞いてきた。

 話しかけて、安心させるためだろう。


 俺は、答えられなかった。


 この子の本当の名を、俺は知らない。


 母親が、死ぬ間際に言いかけて途切れた。

 その途切れた音しか、俺は知らない。


 だが、名前がなければ、この女はこの子を呼べない。


 それに、いつまでも名前がないのは良くないと思った。


「……セラ」


 俺の口が、その音を出した。

 初めて、声にした。


「綺麗な名前だね。この子にぴったり」


 女は、この子の耳元で言った。


「セラ。もう大丈夫だよ。よく頑張ったね」


 その名前で呼ばれて、セラの閉じかけた目が、ほんの少し動いた気がした。

 俺の、見間違いかもしれない。


 かまどの火が、爆ぜた。


 俺は、殺した女の最後の音を、この子の名前にした。

 「セラ」という言葉が、この子の名前なのかは、もうわからない。


 その言葉はもう、俺だけのものではなくなっていた。

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