第三十三話 自分を埋める
森に入ってから、三日ほど経った。
幸いなことに、あれから魔物とは出会っていない。
脇腹の傷は、塞がりきらないまま、歩くたびに口を開けた。
途中に見つけた川で、傷口を洗った。
普通の傷より治りが遅い気がする。
魔物の魔素の影響か、それとも、単純に休めていないからなのか。
どっちにしても、考えるだけ時間の無駄だ。
子供は、相変わらず喋らない。
だが、あの日の夜から、俺の差し出すものを少しずつ口にするようになっていた。
それだけが、俺が進む理由になっていた。
次の日の夕方、木々がまばらになった。
その先には、どこまでも広がる空が見えた。
ようやく、森を抜けた。
森の先に見えたのは、空だけではなかった。
人の手が入った畑だ。
野菜のようなものが植えてある。
その奥に家が並んでいて、煙が昇っていた。
村だ。
王都から逃げてきて、初めて見る人の気配だ。
俺は、その場にしゃがみ込んだ。
走っていきたい気持ちを抑えて。
自分の格好を、見下ろした。
帝国の軍装。
泥と血。魔物の脂で汚れている。
汚れていても、この服が何かは、一目で分かる。
エルダインを踏み潰した、帝国の兵士。
この恰好のまま、あの村へ入れば、どうなるか。
もしかしたら王都の惨状は、まだここまで届いていないのかもしれない。
上着を脱げば、その辺の傭兵に見えなく……もない。
いや、それに賭けられるほど今の状況は良くない。
村人が襲い掛かってきたら、この子はおろか、自分すら守れないだろう。
この国では、帝国は憎まれる側だ。
一統の福音なんて、ここの人たちにとっては戯言だ。
王妃が、俺に言ったように。
日が落ちるのを待った。
子供を木の根元に座らせた。
この子は、俺の意図を理解したように、そっと袖を離した。
俺は、村の方向へ歩き出した。目立たないように。
村の外れに、一軒、他より離れた家があった。
裏手に縄が張ってあって、洗った服が干したままになっている。
取り込むのを忘れたんだろう。
畑に身を伏せて、そこまで這った。
道中に生えている野菜が目に入った。
兵士のやることじゃない。盗人のやることだ。
だがその線なら、とうに越えている。
野菜をゆっくり引き抜いた。
大きい。
見たこともない野菜だ。
白くて、長い。
二本ほど引き抜いて、地面に置いておいた。
これだけあれば、数日はあの子の腹を満たせそうだ。
嫌いじゃなければいいが。
それからすぐに、家の方へ向かった。
縄から、手当たり次第に外した。
大人のもの。それから、小さいもの。子供の服。
掴んだ時、指が少し止まった。
この家にも子供がいる。
その子の服を、俺は盗んでいる。
王妃の声が、また、聞こえた気がした。
俺達は、この人達の生活を壊した侵略者。
壊すのをやめたわけじゃなかった。
逃げながら、まだ奪っている。
しかたがない。申し訳ないとすら思ってる。
そんなことを思う資格なんてないのもわかってる。
もし俺がエイダンと逃げていたら、こんなことを考えたんだろうか。
それとも何も考えず、盗みをしていたのか。
先ほど抜いた野菜を持とうとした瞬間、家の扉が開いた。
俺は、咄嗟に畑に伏せた。
誰かが出てきた。
桶の水を庭に撒く音。
それから、洗濯物のほうへ足音が近づいてくる。
息を殺した。
手の中の、盗んだ服を握りしめて。
足音は、縄の手前で止まった。
――足りない。
そう思われた瞬間、終わりだ。
だがその人は、残りの洗濯物を腕に抱えて、取り込んだだけだった。
数える様子もなかった。
扉が閉まった音がした。
しばらく動けなかった。
心臓の音が、畑の土に響いている気がした。
急いで子供のところへ戻って、月明かりで着替えた。
軍装を脱いだ。
何年着ていたものか。
よく見たら、至るところがほつれて、穴が開いている。
脱ぐと、体が妙に軽くなった。軽くて、頼りなかった。
脱いだ軍装は、穴を掘って埋めた。
剣も一緒に埋めようとして、やめた。
これだけは、まだ手放せなかった。
この子を守るのに要る。
そう、自分に言った。
本当はただ、丸腰になるのが怖かっただけかもしれない。
「……似合うか?」
返事はない。もう返事は求めてはいない。
「さあ、お前も」
小さいほうの服を、子供に着せた。
少し大きい。袖を折ってやった。
「よし。似合ってるぞ」
普通の子供服を着たこの子は、どこにでもいる村の子供に見えた。
王女には、見えなかった。
それでいい。
王女に見えないほうが、この子は長く生きられるだろう。
埋めた土を、一度だけ踏み固めた。
今日ここに、どうしようもないクソ野郎の帝国兵を埋めた。
埋めた奴も、まだどうしようもない人間なのかもしれない。
埋めたことによって、なにかが変わる気がした。
いや、変わらなければいけないと思った。
この子のために。
他人の服を着て、他人の子供の服を着せた子を抱えて、村を大きく迂回し、北へ回った。
灯りには、近づかなかった。
あの灯りの中に、俺の入っていい場所はない。
「……今日は、腹いっぱい食べるか?」
俺の声が、この星空に溶けていった。




