第三十二話 空になった器
眩しい。
どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
木の間から差し込む光で、昼前になっていたのがわかった。
知らない間に眠ってしまったようだ。
子供は、俺の膝の上で寝息を立てながら寝ていた。
この子は、母親を殺した男の膝で無防備に眠っている。
この子を起こさないように、首だけを回して、周りを見渡した。
さっきまで薄暗かった森が照らされて、森の奥までよく見える。
同じような木が、どこまでも続く。
どこから来たのか、一瞬分からなくなった。
辺りを観察していると、子供の寝息が止まったことに気づいた。
視線を戻すと、俺と同じように周りを見渡していた。
そして、俺の方を向いた。
「……眠れたか?」
返事は、なかった。
一晩経ったらもしかして、とも思ったが、この子は口を聞いてくれなかった。
そういう病気なのかもしれない。
もともと、話せない子なのかも。
そんなことを考える。そう考えた方が、楽だった。
俺のやったことに関係なく、この子は話せない。
それでも、俺のしたことは消えない。この子の母親を殺した。
その事実だけは、俺の背中から、落ちることはない。
「そろそろ行こうか」
王都のある方角を背にして、歩き始めた。
行く当てはない。故郷とは反対の道。
ここから先は、誰の言葉も、俺を導かない。
腹が減った感覚は、もうなくなっていた。
腹が減ったと言っているうちは、まだ余裕がある時だ。
本当に減ると、なにも感じなくなってくる。
その静けさのほうが、恐ろしく感じた。
子供は、軽くなっていた。
抱え直すたびに、それが分かる。
この子は、麦が嫌いなようだ。
木の実を探して、食べられそうなものは、食べさせてみた。
半分は、吐き出した。
それでも、少しは飲み込んだ。
それでいい。その少しで、生き残れるかもしれない。
戦場で学んだことが、こんなところで役に立ってる。
落ちていた太い枝の先を研いで、槍を作った。
なにか生き物がいれば、これで突く。
これも、軍に入って学んだことだ。
だが、こっちの知識は通用しなかった。
そもそも、周りに生き物がいない。
どこの森でも、鹿の一匹や二匹はいるのに。
この森には、生き物の気配を感じられない。
その理由はなんとなくわかっている。
考えたくなくても、頭にちらついている。
その日は結局、木の実を食べてしのいだ。
気配に気づいたのは、翌日の昼前だった。
木の折れる音。
地を這うような唸り。
森に入った夜に聞いた、あの声だ。今度は、遠くない。
草をかき分けて、それは出てきた。
猪だ。
だが、俺の知る猪ではない。
牛くらいの大きさ。毛は黒く、脂で濡れたように光っている。
牙は、俺の腕ほどの長さ。
目が赤い。
魔物だ。
人の絶えた森が生んだ、魔素の塊。
俺は、剣の柄に手をかけた。
身がすくむより先に、別のものが来た。
肉だ。
あれだけの肉があれば、この子は何日ももつ。
腹の奥が、そう囁いた。
魔物の肉が食えるかどうかなど、その時の俺は考えもしなかった。
考えたくなかったが正しいのかもしれない。
子供を、太い木の陰に下ろした。
目を見て、言った。
「ここにいろ。動くなよ」
返事はない。
ただ、俺の袖を掴んでいた手が、離れた。
それが、返事の代わりだった。
剣を、抜いた。
魔物が、地面を蹴った。
あの図体で、信じられない速さだ。
俺は横へ跳んで、すれ違いざまに首を狙った。
刃は、皮に弾かれた。
鎧を斬るのと、変わらない手応え。こいつは、異常に硬い。
向き直る。もう次が来ている。
牙が、脇腹を掠めた。熱いものが走る。
避けられていなかったと分かったのは、後からだった。
何度か、打ち合った。
斬りつけては弾かれ、避ける。
息が続かない。
飢えた体は、動くたびに重くなる。
長くはもたない。
それは、こいつも同じはずだった。だが、向こうには、飢えがない。
どうする。逃げるか。
そう思った時、魔物の目が逸れた。
木の陰。子供のいる方へ。
考える前に、体が動いていた。
俺は、魔物と子供の間に、割って入った。
剣を構える、というより、ただ、立ち塞がった。
背中で、俺の殺した母親の娘を庇って。
この時になって、初めて、はっきりした。
俺は、こいつを、食うために斬るんじゃない。
この子に、近づけないために斬る。それだけだった。
魔物が、突っ込んできた。
俺は避けなかった。避ければ、後ろにあの子がいる。
牙を、剣の腹で受けた。押し込まれる。
足が土を掘る。膝が折れかける。
耐えた一瞬に、隙が見えた。
振り上げた首の下。皮の薄い、喉。
ここしかない。
片手を、剣から離した。
とたんに押し込まれる。
倒れかけながら、腰の短剣を、喉の下へ突き上げた。
今度は、刃が入った。
熱い血が、腕に噴きかかる。赤黒い血だった。
魔物は、数歩たたらを踏んで、横倒しに倒れた。
地面が揺れた。
俺もその場に膝をついた。
もう、立てなかった。
俺は、子供の方を振り返った。
泣いていない。ただ、俺のことを見ていた。
「……倒したぞ。もう心配ない」
当然、返事はない。俺のことを見ていただけだ。
しばらくして、脇腹の傷を押さえながら、魔物の腹に、刃を入れた。
肉を、取るために。
だが、割いた腹から得たものは、ひどい匂いだけだった。
肉は、黒ずんでいた。
まるで、腐った肉だ。死んだばかりだというのに。
魔物の肉は食えない。
どこかで、聞いた気がする。
魔素の塊のような魔物を食べると、中毒になって死ぬ。
いわば、毒が入っているようなものだと。
知っていたのかもしれない。知っていて、忘れたふりをしたのかもしれない。
俺は命懸けで、食えないものを殺した。
この子に食わせるものは、何一つ、増えていなかった。
日が暮れてから、俺は火を焚いた。
この森に入ってから、初めてだった。追ってくる者などいない。ここまで来て、ようやく、それを半分だけ信じられた。
昼のうちに拾った木の実と、名も知らない草を煮込んでスープにした。
鍋なんてもちろんない。
肘当てを外して鍋代わりにした。
丸みがある金属は、これしかなかった。
濁った、薄い汁だ。塩気もない。だが、温かかった。
少し冷ましてから、子供の口元へ運んだ。
子供は俺を見た。
それから、火を見た。
そして、湯気の立つその汁を。
口が開いた。
ゆっくりと、飲み込む。
少し咳き込んで、また口を開けた。
二口目。三口目。
俺は、何も言わなかった。
言えば、この子が我に返る気がした。
ただ、スープを口に運んだ。
冷めないうちに。
俺の腕の中で、この子は、温かいものを飲んでいる。
俺の作った、味気ないスープを飲み干した。
空になった器と脱いだ靴を、火の側に置いた。




