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業の福音 〜征服こそ正義だと信じていた男は、その手を汚し続けた〜  作者: 星喰ゆう
第三章 北へ

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第三十一話 返らない声

 早く王都から離れないと。


 ようやくたどり着いた羊飼いの道は、細かった。

 人が一人、通れるだけの幅しかない。


 丘の道を、右へ左へと縫って、少しずつ登っていく。


 昼間なら、羊を追う子供でも歩ける道だろう。


 夜は違った。

 足元が見えない。


 普段ならなんてこともない道も、今は重く感じる。


 ふと、腕の中の子供を見た。

 疲れているはずだが、眠っていなかった。


 腕の中で、目を開けて周りを見ている。

 何を見ているのかは、分からない。


 俺の肩越しの暗い空か。

 あるいは、離れていく王都か。


 東の空が白み始めた頃、俺は一度、道の脇に座り込んだ。


 膝が笑っていた。


 急がなければいけないのはわかってる。


 だが、そろそろ限界だ。


 昨日から、まともに食べていない。


 いや、その前からだ。


 陣にいた頃から、人間らしい食事は出来ていなかった。


 今思えば、征服地出身の俺達の部隊はいつも飢えていた。


 慣れたつもりでいた。


 だが、戦い続けた体は正直だった。


 何か腹に入れろと、内側から急かしてくる。


 腰の袋に、乾いた麦の塊がいくつか残っていた。


 いつからあるものかも分からない。


 一つを半分に割って、小さいほうを子供の口元へ運んだ。


「ほら、食べられるか?」


 子供は、口を開けなかった。


 顔を背ける訳でもない。


 ただ、麦を見て、それから俺を見た。


 俺の手のものは食べないと決めているみたいに。


 あるいは、食べ方を忘れてしまったみたいに。


 無理に食べさせるようなことはしなかった。


 そんなことをすれば、この子はまた一つ、何かを閉じる気がした。


「そうか。そうだよな」


 割った麦を、両方とも袋へ戻した。


 自分の指が一瞬、名残惜しそうに動いたのが分かった。


 体は、それを食えと言っている。

 だが、袋の中身は、もう数えられるほどしかない。


 俺が食えばその分、この子の口に入るものが減る。


 俺も食べなかった。


 この子よりも先に、何かを食べる気にはなれなかった。


 陽が昇りきる前に、丘を越えた。


 下りの先に川があった。


 思っていたより川幅が広い。

 流れは速くなさそうだ。


 だが、暗い水面を見ているだけで、体の芯が冷えた気がした。


 この薄暗い空では、ブルーノが言っていた浅瀬がどこかはわからない。


 あの時、目印を聞いていたらよかったと思った。

 あるいは、ブルーノも一緒に――


 思わずため息が漏れた。


 子供が俺の顔を見ている。


 駄目だ。

 とにかく動こう。

 足を止めるな。



 川沿いを歩いた。

 水の音を聞きながら、流れが乱れて白くなっているところ、石が水面から顔を出しているところを探す。


 そういうところは、なかなか見つからなかった。


 ブルーノが見たという二箇所が、本当にこの辺りなのかも確かめようがない。


 死んだ男の、うろ覚えの言葉だ。


 西へ少し歩いて、流れの緩いところに出た。


 対岸まで、石が点々と続いている。


 ここだ、と決めるしかなかった。


 空が明るくなってきた。

 もうグズグズしてはいられない。


「しっかり掴まってろ」


 子供に声をかけて、水に足を入れた。


 冷たさが骨まで来た。


 傷という傷が、いっせいに悲鳴を上げる。


 長い戦で、ぼろぼろになった足。

 壁で擦った腹の脇。

 腕。

 太もも。


 冷たい水は、痛みを鈍らせるどころか、逆に研ぎ澄まされる。


 子供は、両手でしっかりと抱きかかえた。


 こんなところで落としたら、この子は終わりだ。


 俺が強く抱くと、子供も俺の首元をしっかりと抱きしめてきた。


 腹も減っているだろう。

 疲れているだろう。


 でもその腕には、確かに力を感じられた。


 川の石は滑りやすい。


 一歩、踏み外した。


 膝までずるりと沈む。


 流れが思っていたより腰に食い込んでくる。


 倒れれば、この子ごと持っていかれる。


 咄嗟に子供を持ち上げようとした。


 だが、もう力が上手く入らない。


 早く渡らないと。


 息を止めて、次の石を爪先で探し、体重を、ゆっくり移す。

 また、次の石。


 子供は、声を立てなかった。


 俺の首に回した手に、力がこもっていた。

 それだけが、この子が怖がっている証だった。


 対岸の土を踏んだ時、足が自分のものではないみたいに震えていた。


「もう、大丈夫だ」


 その言葉に安心したのか、腕の力を少し緩めた。

 俺の言っていることはわかるみたいだ。


 川の向こうはエイダンの言った通り、森だった。


 森に入れば、捜索は難しい。


 あいつは、川までしか見ていない。

 森の中がどうなっているかは、知らないはずだ。


 ここからは、自力で進むしかない。



 森は、静かすぎた。


 鳥の声がしない。

 虫の音もない。

 枝を渡る小さな気配の、一つもない。


 生き物のいない森などない。


 いないのではなく、息を潜めている。

 もっと大きな何かがいるからだ。


 こういう土地を、俺は知っている。


 人の絶えた場所ほど、魔素が濃い。

 だから魔物が湧く。


 エルダインは、そういう土地を長年抑えてきた国だ。


 魔物に守られている、とは思えなかった。

 俺達は、追手のいない場所じゃなく、追手が来たがらない場所へ、逃げ込んだだけだ。


 濡れた服が、風で冷えた。


 火を焚きたかった。


 だが、火は目立つ。


 見つかる、とは考えないようにした。


 追ってくる者などいない。

 頭では、そう思う。


 なのに、木の影が動くたび、振り返った。


 枝の鳴る音を、足音と聞き違えた。


 追われていないと信じるのに、体がそれを許さなかった。


 誰もいない森の中で、いない誰かから逃げ続けていた。


 森に少し入ったところで、大きな木の根の間に身を寄せた。

 風が、少しだけ弱まる。


 子供を、膝の上に抱えた。


 濡れた俺の服より、この子のほうがまだ温かい。

 この子の熱が俺を温めているのか、俺がこの子を冷やしているのか、分からなかった。


 懐で、硬いものが手に触れた。


 丸い石。

 血が染みて、黒ずんでいる。


 アンセルの験担ぎ。

 丸い石を拾えば、無事に帰れる。


 効果がないことはわかっている。

 でも、ヤコブが残したこの石を、俺はいまだに捨てられずにいる。



 あれから、随分と時間が経った気がする。



 腹の足しにはならないが、重さの足しにはなる。

 忘れないための重さ。


 石は、変わらず重かった。

 死んだ奴らの数だけ、重くなっていく気がした。


 もう一度、麦を割って差し出した。


 子供は、やはり口を開けなかった。


「だめか……」


 俺は手を下ろした。


 腹が減って、どうしようもなくなれば、口を開ける。

 人は、そういうふうにできている。


 そう思うことにした。


 森の奥で、何かが低く鳴いた。


 獣の声だ。

 遠い。

 だが確かにこの森には、俺達のほかにも何かがいる。


 子供の手がまた、俺の服を掴んだ。


「……大丈夫。大丈夫」

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