第三十話 羊飼いの道へ
城中が、燃えていた。
まるで、背中を熱が押してくるようだ。
梁の落ちる音や、石の割れる音。
その音に紛れて、人の叫び声が聞こえた。
誰のものかは分からない。
敵も味方も、もう叫ぶしかなかった。
俺は、血で滑る廊下を走っていた。
片腕に、子供を抱えて。
軽い。
走るたび、その体が脇で跳ねた。
掴んだ手だけは、緩まない。
俺の服、血の匂いのする服を離さなかった。
この子は、俺が母親を殺すところを見たのだろうか。
いや、今は考えない。
考えれば足が止まる。
まずは、王都から離れる。
それだけを考えればいい。
体中が悲鳴を上げているのがわかる。
あの、老騎士に蹴られて柱に打ちつけた背中。
元から傷がある、腕や太もも。
この戦で、数えきれないほどの傷を負った。
それに加えて、片腕がふさがっている。
この子を抱え直したり、少しの段差を気にしたり、いつもの自分では、考えもしないようなことに神経を使ってしまう。
そのせいで、なかなか出口までたどり着かない。
しばらくして、外へ出られた。
夜の風が、汗ばんだ背中にまとわりついた。
周りに火は上がっているのに、明かりの届かない場所は底なしに暗い。
石畳に、荷物が散らばっている。
野菜。
何かの袋。
片方きりの靴。
靴。
逃げる時に脱げたのだろうか。
それが子供のものかどうか、気になった。
靴を拾おうとした瞬間、思い出した。
王妃の言葉を。
俺達は、飼いならされた奴隷。
他国の人間を殺すように、命じられるまま動く、哀れな奴隷。
俺達はエルダインの人達の生活を壊した、侵略者なのだと。
そんな俺が、逃げた子供の心配をすることに、意味はあるのか。
そんな人間が、殺した人間の子供を助けることに、理由は――
立ち止まれば、そんなことを考えてしまう。
俺は、また走り出した。
王都の外へ。
角を曲がったところで、二本の松明が見えた。
帝国兵だった。
軍装が、同じ。
だけど、第七軍団の連中じゃない。
綺麗な軍装。
第二軍団の連中だ。
一人が、家の扉を蹴破っている。
中から女の悲鳴が聞こえた。
別の一人が、こちらを見た。
俺の腕の、布包みに目を留めた。
「おい、お前。どこの隊だ? 何を持ってる?」
手が、伸びてきた。
中身を確認するような手だ。
俺達が攻めていた門は反対側だ。
こちらに帝国兵がいるということは、脱出の為に、兵士か住民が門をこじ開けたに違いない。
外で待ち構える役割のこいつらが、こんなところにいるなんて、盗賊まがいの略奪をする以外に理由はない。
こいつらは戦利品を探している。
俺は体を開いて、包みを反対の脇へ回した。
「これは軍団長に持っていけとの指示があった品だ。他を当たれ」
「……軍団長が?」
嘘だ。
俺は、第二軍の軍団長の名前も知らない。
けど、こんな状況で、俺に出来るのは、こんなか細い線を渡る賭けに出ることだけだった。
「中身はなんだ?」
「……お前、名前は?」
「……オーレク」
「そうか、オーレク。軍団長に報告しておこう。持ち場を離れて、軍団長の持ち物を奪おうとした、と」
「っ!」
「別にお前たちのやってることにケチをつける気はない。俺は軍団長の命令を――」
言いかけたところで、もう一人が声をかけた。
「おい、もういいだろ! はやく俺達の取り分を取りに行くぞ!」
「あ、ああ。すまなかったな」
帝国兵は、走って街中に消えていった。
なんとかしのげた。
でも、これが何度も通用するとは思えない。
早く外に出ないと。
歩調は、変えなかった。
速く歩けば、目立つ。
遅すぎれば、覚えられる。
十年間戦場で培った経験が、歩く速さを決めた。
今のやり取りでも、腕の中で子供は声を立てなかった。
すべて、聞いていたはずだ。
それでも、泣かない。
大通りに出ると、人が増えた。
逃げる住民の流れだ。
荷を負い、子の手を引き、頭を低くして、門のほうへ流れていく。
一部の人間は、暴動のように兵士に殴りかかってる。
無秩序な状態だ。
だからこそ、逃げる隙がある。
俺も、その中に紛れようとした。
紛れれば、消える。
エイダンの言ったことの、真似のつもりだった。
住民に押されながら門を出た。
自然と、この子のことをかばうように進んでいた。
王都の外では、帝国兵が流れを止めようと、小規模だが、脱出を阻止する形を組んでいた。
槍を突き出し、住民に「止まれ!」と叫んでいた。
検問を突破しようとした者、帝国兵に逆らったものは、容赦なく殺されていた。
それを見て、王都から出る流れが緩くなっていた。
このままでは逃げられない。
そう思った時、住民の波に紛れていたエルダイン兵が帝国兵に襲い掛かった。
数は五人。
決して多くない。
多くないが、帝国兵の注意がそちらに向いた。
今しかない。
俺は列を外れ、街道から逸れて、壁沿いを走った。
壁沿いの兵士が、先ほどのエルダイン兵の背後を突こうと離れた隙を狙った。
幸い、上手くいった。
この混乱と暗闇が、隠してくれた。
――三本のうち、二本は街道だ。
関所がある。
使えない。
耳の奥で声がした。
もう一本は、丘を回って川に出る。
川を渡って森に入れば、捜索は難しい。
そのまま、エルダインを抜ける。
あの時、俺は黙って聞いていた。
一緒に行くとは、答えなかった。
名簿も、開かなかった。
あいつと並んで、その道を歩くことはしなかった。
その道を俺は今、一人で辿ろうとしている。
いや、一人じゃない。
連れているのは、エルダインの王妃の子供。
エイダンでも、リーゼでもなく、敵国の王女を連れて逃げている。
しばらく進むと、そこは畑だった。
刈り取りの済んだ、痩せた畑。
土の匂いがした。
気づいたら、さっきまでの王都の熱気が感じられなくなっていた。
夜の冷たい空気が、一気に肺の中へ入ってくる。
畑の先に、丘の影がいくつも重なっている。
北だ。
あの丘の間を、羊飼いの道が縫っているはずだった。
エイダンが、あの先で捕まった。
道の先に川がある。
渡れる場所が、二か所。
浅瀬だとブルーノが言っていた。
エイダンは吊るされ、ブルーノは王城の広間に置いてきた。
二人とも、もういない。
残ったのは、その二人が置いていった言葉だけだ。
それを頼りに、俺は北に向かって進んでいる。
背後で、まだ王都が燃えている。
振り返らなかった。
振り返る間が惜しい、というのもある。
だがたぶん、それだけではなかった。
後ろで、砂を蹴るような音が聞こえた気がした。
足を止め、闇に目を凝らす。
何もいない。
畑が、黒く広がっているだけだ。
風が、草を鳴らした。
それを、足音と聞き違えた。
誰も追いかけてこない。
そう思おうとした。
リーゼが誤魔化してくれて、追っ手はいないのかもしれない。
後ろには、風しかなかった。
それが、なぜだか不気味に感じられた。
腕の中で、子供が俺の服を掴み直した。
俺は、また歩き出した。
丘のほうへ。
エイダンが示した、羊飼いの道へ。




